今のままじゃダメだ!がんばらないと!イヤもう・やるしかナイんだ!アタマでは十分わかってる。わかってるのに…。
それでも・どうしても・がんばれない、努力できない、はじめてみても続かない…。こんな悩みをもっている方は多いのではないでしょうか?
例えば
ダラダラした生活習慣を変えて健康のために運動をするべきだ、と言うコトは良くわかっている。
医者からもそう言われたし、本にもそう書いてあった、アタマでは十分すぎるほど良く理解している。
それなのに、どうしても運動する習慣がつかない。始めてみても3日坊主で終わってしまう…。
あるいは
くだらないテレビやネットばかり見ていないで勉強しなきゃイケナイことはわかっている。
本当に心から行きたいと思っている学校のために、あるいは心からやりたいと思っている仕事のために、どうしても勉強する必要があることはアタマでは十分理解している。
なのにコツコツと勉強を続けることができない。
ツイツイくだらないテレビをみたりネットをみたりしてしまう。
こんなんじゃダメだ!と解かってはいるのに、どうしても実行できない。
はじめてみても続かない、がんばりたいのに、がんばれない。
努力したいのに努力できない…。
どうしてこうなってしまうんだろう?病気なのか?うつ病なのか?努力する才能がないのか?
そんな悩みです。
ネット上ではそんな悩みを解決する方法がたくさんでてきます。
でも実際に読んでみると、こういった「がんばれない」「努力できない」という悩みを本当に解決する方法は、ほぼ見つかりません。
でてくるのは「なにも、がんばらなくてもいいんじゃない?」という悩みそのものを否定するようなアドバイス。
あるいは「努力する!と公言してしまおう!」みたいな効果が???なアドバイス。
もしくは「努力することをルーチンにしよう!」みたいな、もともと努力することができない人には、できるはずもないような方法。
「努力できない」というコトの定義じたいが違う、というものもあります。
人間なんて弱いんだから、自分のためだけに自分一人で努力するコトなんて出来るはずがない、と・もう最初から「自分のためには努力できない」という問題を解決するコトじたいをあきらめていて
とにかく「努力する」ということができればイイんだから、と・「自分のため」ではなく「人のため」に努力するにはどうすれば良いか?を解説しているものすらあります。
そこで、この記事では「自分のために、がんばりたいのにがんばれない」「自分を変えたいのに変えられない」「自分のためには努力できない」といった種類の問題を本当に根本から解決する、たった一つの方法をお伝えしたいと思います。
この方法は、基本的には社会心理学者、エーリッヒ・フロムの理論に基づいていますが、それに私の禁煙セラピストとしての約20年の経験を踏まえ、より解かりやすく解説しています。
さらに私自身が、この方法で自分自身の「努力できない病」を克服してもいますので、それによって、フロムの本だけでは少し解かりにくい彼の理論を、より実感的にそして具体的に説明することができるようになったと思っています。
目次
その方法は簡単にはみつからない
お恥ずかしいことに、実はこのブログを書いている私こそ「自分のためには努力できない」病の超重症患者だったのです。
恋人のため、会社のため、など自分以外の誰かのためであれば、そして短期間であれば、それこそ猪突猛進にガーっと熱狂的に集中し、何日も徹夜したりして人並み以上にがんばれる、努力できる、それなりには成果もだせる。
でも、たとえば自分自身の健康のために毎日運動するとか、自分自身の人間的成長のために毎日瞑想するとか、そういう自分のためだけに、毎日コツコツと継続していく系統の努力は、ナニヒトツまったく出来ない。
3日坊主どころか1日坊主。「ヨシ!今日から毎日やるぞ!」と決めて始めても、実際にやるのはその日だけ。そんな状態でした。
でも、本当の意味での実力を身につけるためには、このようなコツコツ系の継続的な努力を続けるしかナイというコトは頭ではハッキリとわかっていたのです。
でも、いくらアタマでは解かっていても、現実には何一つ毎日コツコツと一つのコトを続けていくような継続的な努力をすることができませんでした。
私がこういう種類の「努力できない病」に悩んでいたのは今から20年以上前です。
その頃は今のようにネットが普及していませんでしたが、自己啓発系の雑誌や本は当時から沢山ありました。
どれほど沢山の雑誌や本を読んだことでしょう。
でも結局、「コツコツ系の継続的な努力ができない」という悩みを、本当に根本から治せるような方法は、自己啓発本や雑誌の中には、何一つありませんでした。
スピノザという、ヘーゲルやカント、マルクスなどにも強い影響を与えた17世紀最大の思想家の一人はこんな風に言っています。
どんなに助かるための方法が見つけにくいとしても、それでもその方法は見つかる
実際、それは滅多に見つけられないからこそ難しい方法なのだ。
もしも助かる方法が、すぐに手の届くところにあり、多大な労力なしで見つけられるのなら、誰もがそれを放ってはおかないだろう。
しかしすべての高貴なものは、それが希少であればあるほど、見つけにくいものでもある。
そうです。そんじょそこらの自己啓発本なんかに書いてあるはずがないのです。
当時の私はこのスピノザの言葉は知りませんでした。
でも、努力できない病患者だった私は同時に、「あきらめられない病」患者でもありました。
また時代も良かったのでしょう。
今のようにネットでどんな情報にもすぐにアクセスできる時代ではなかったので、どこかにまだ私が知らない解決法があるのでは?と希望を持つことができたのです。
「あきらめられない病」と、時代的な背景に助けられ、私は14歳で、この問題に悩みだしてから12年間もの間「努力できない病」を何とかしようともがき、苦しみ、その方法を探しあぐねていました。
宗教に入ることで解決するのではないか?と思ったこともあります。
でも当時、重度の「努力できない病」であった私は「なにもかも信じられない」状態でしたので、宗教を信じることもモチロンできません。
私が重度の「努力できない病」患者であったころ、精神的にも不安定で人間関係にも問題が多く、とくに母との関係が最悪でした。
そこで母とは離れて住んだ方が良いだろうと思い一人暮らしをしたこともあります。
またそこには「経済的に自立することも大切かもしれない」という思いもありました。
母から離れ経済的に自立した生活を送ったことは、ホンの少しですが私を変えてくれました。
でも、まだ経済的自立の能力がアヤフヤであり、かつ経済的な自立の強烈な重要性についてもあまりハッキリとは理解していなかった私は、結局はまた実家に逆戻りしてしまいます。
何度独立したり実家に逆戻りしたりしたことでしょう。まだまだ暗中模索の状態でした。
宗教を信じることができなかった私は、「知識」に救いを求めました。
宗教学とか哲学とか心理学とか、そういう分野に答えはあるのではないか?と考えたのです。
やっと見つけた!
そして、とうとう最終的に私はその方法を見つけました。
結論から言うと、その解決法は、エーリッヒ・フロムという、一般にはフロイトとマルクスを統合したとして知られている社会心理学者の著書の中にありました。
でもフロムは単にマルクスとフロイトを統合した社会心理学者ではありません。
彼は実際に患者を診ていた臨床家でもあり、私に言わせれば、彼こそ20世紀最大の思想家の一人です。
もしも今この文章を読んでいるあなたが、少しは体力があり、多少は規則正しい生活ができる状態で、やや読みにくい感じがするような長文であっても問題なく読みこなせる読解能力を持っている人で、かつ「努力できない病」に悩んでいるのであれば、もうこれ以上はこの記事を読む必要はありません。
まず最初にフロムの「精神分析と宗教」という本を読み、次に「自由からの逃走」を読んで、それから「人間における自由」を読んでください。
翻訳がかなり古く、部分的には誤訳もあるため、もしも「ん?」と思う部分があった場合、原書との併読を強くお勧めします。
かえって原書の方が解りやすい部分も沢山あります。
決して読み流したりしないで、しっかりと丁寧に何度も何度も、本なんてボロボロになるまで読み込んでください。
そこに答えはあります。
でも、今のあなたが体力もなく、規則正しい生活もできない、少し難解に見える長文を読解する気力もない、でもやはり「努力できない病」を、なんとかしたいと思っているのなら、この続きを読んでください。
本が読めないなら
実は、私がこの記事を書こうと思った理由の一つに、エーリッヒ・フロムの本を「読めない人」が、とても多いという事実があります。
これはネット時代の弊害なのでしょうか、少し読みにくい感じがする(慣れれば本当は読みにくいわけではないのですが)長文を、流し読みではなくしっかりと丁寧に読みこむ能力を持っている人が、かなり減っているようなのです。
今まで私が会ったことのある「努力できない病」で悩んでいる方に、「この本の中に答えがありますよ」とお勧めしても、実際には、フロムの本を最後まで読んだ人は一人もいないのです。
皆さん、最初の数ページを読んだだけで挫折してしまうそうです。ひどい場合、本を買っただけで一度も開かなかった人さえいます。
もちろん、少し難解(にみえる)本をしっかりと読み込むためにはトレーニングも必要ではあります。
どんなに読書好きと自負しているような方でも、今までは小説のような軽い読み物しか読んだことがない人が、やや難解な本を読むためには最初はどうしても訓練がいるのです。
ぶ厚いコ難しい本は読めない。
フロムの本に出会ったばかりの頃の私も同じでした。
フロムの本に出会った当時、私は「どうやらここに答えがありそうだ」ということが何となく見えていました。
この答えこそが、私が12年間も探し求めていたものなのです。
またその当時、私は自分を読書家だと自負してもいました。
幼いころから読書が好きで、小学生時代はすでに、田辺聖子や星新一は愛読書で、ドストエフスキーも読みはじめていました。
中学生以降は、夏目漱石と村上春樹とサガンとドストエフスキーとヘッセが愛読書となり、彼らの著作はすべて貪るように読みました。
いつでも常に本を読まずにはいられないほどの活字中毒でした。(ちなみに星新一、夏目漱石、村上春樹、サガン、ドストエフスキー、ヘッセは、「努力できない病」を克服するためにはむしろ避けた方が良い書籍であり、今ではほとんど読むことはありません。)
でも、哲学書などの、いわゆる難解な本は、ざっと斜め読みするくらいで、本当に丁寧にしっかりと読み込んだことなど一度もありませんでした。
それらは解かりにくく、読みにくく、退屈で、意味がとりにくく、なんだかこじつけめいた論理展開があったり、あきらかに矛盾していたりして、読んでいると眠くなってしまうかイライラしてくるのです。
フロムの本は違いました。
フロムの本は他の哲学書などに比べるとずっと読みやすく意味も取りやすく論理展開にも矛盾がありません。
しかも12年間も探し求めていた答えがどうやらここにありそうなのです。
それなのにどうでしょう?比較的に薄い本ならまだしもブ厚い本になるとお手上げでした。
ものすごく熱意をもって真剣に「探し求めた答えがありそうだ」と、強烈に興味深く読んでいるはずなのに、少し意味が取りにくい文章が続くと、どうしても眠くなってしまうのです。(後にそれには翻訳上の問題があるということも解かりましたが)
でも私はあきらめられなかったので、眠くなってきたらモカという眠気覚ましのドリンク剤として当時有名だったアンプル剤を飲みながら読みました。
また翻訳に問題があるのかも?という疑念もありましたので、原書も同時並行に読み進め、まるで受験勉強でもしているかのように、あちこちにフセンを貼りラインを引き、丁寧にしっかりと読み込んでいきました。
そうやって数冊を読破するうちに、眠くならずに読めるようになっていきました。
本当は、そうやってフロムの本を直接読んだほうがズーっと良いと思います。
でも、このような私の提案を、今現在「努力できない病」にかかっている人に、やってもらうことができるでしょうか?
フロムの著作に出会った時代、私は実はホンの少しだけですが、自力で「努力できない病」を治しつつあったのです。
だからこそ、読書という得意分野であったとはいえ、難解な本を読むという、それまではできなかったはずの「努力する」ことができたのでしょう。
ここまで読んで、「なんだ、もともと努力できる人だったんでしょ?」と思ったあなた、違います。
私がどれほど重症な、努力できない病患者だったか、お知らせしましょう。
超重度の努力できない病患者でした
以下はネットで見つけてきた「努力できない病」の人たちの特徴ですが、これは、すべて昔の私にそのまま当てはまります。
そうです。
当時の私の口癖は「私には努力する才能がない」でした。
短期間の瞬発力ならありましたが、長期間なにかを毎日コツコツと続けるという継続系の努力は何一つ、まったくできませんでした。
「今日から毎日走る」とその日だけ走って終わり、3日坊主どころか1日坊主、というのを何度も何度も繰り返していたのです。
努力できないことは理解されにくい
このような「努力できない人たち」というのは、普通に努力ができる人や、頑張るコトができる人から見ると、いかにもテキトーなフザケたことを言っている人のように見えるでしょう。
努力することができるようになった今、そう思う人たちの気持ちも、またわかります。
もともと努力することができる人たちには、「努力できない」という苦しみがどれほどヒドイ苦しみか、わかりません。
努力できない人が「努力できない」ということに、どれほど絶望しているか?それはこの「努力できない病」にかかっている人にしかわからないでしょう。
もちろん「がんばれない人、努力できない人」にも色々なレベルがあります。
努力できない人の中には、努力できないことを正当化して「才能があれば努力なんていらない」なんてウソぶいていみたり、それこそ「今はまだ本気だしてないだけで、そのうち本気だす」なんて本気で思ってたりする人もいます。
でも、努力がどんなに大切かわかっていながら、それでも、どうしても、努力できない人も本当にいるのです。当時の私もそうでした。
理屈ではハッキリわかっています。
「そのうち本気出す、なんて言ってるうちに人生が終わってしまう。」
「どんな才能が、どれほど沢山あろうとも努力しなかったらまともな成果なんて何一つ獲得できるはずもない。」
「コツコツ毎日の積み重ねこそが本当の実力と実績を作る。」
そういうことは、すべて頭では解っていました。
でも、いくら解っていても、実際にはまるきり何一つコツコツ系の努力が出来ません。三日坊主どころか一日坊主でした。
でも私は今、ほぼ毎日ジムに通い、瞑想する生活をもう20年近く続けています。(あと美顔マッサージと、最近はブログもね!)
努力できない病患者だったときは、「毎日ジムに行く人なんて頭まで筋肉がつまってるようなタイプか、強迫神経症に違いない!」なんて言っていたのに。
重度の「努力できない病」患者だった私がどのようにして「努力できない病」を克服したのか?
これからその具体的な方法、「がんばれない、努力できない、を治すたった一つの方法」を、基本的にはエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」「人間における自由」「精神分析とし宗教」の論旨に従い、また20年近くの禁煙セラピストとしての実践の中で得てきた知識も加え、分かりやすくご紹介していこうと思います。
努力できない病を本当に治すための3ステップ
もしもあなたが、心から「努力したい」と思っているのに「どうしても努力できない」のであれば、まずは次の3つのステップを踏んで「心の筋肉」を強化したうえで、「本気の決断」をする必要があります。
「本気の決断」とはどのようなものか?という詳しい解説は最終章の「決断をくだすタイミングについて」に記載しています。
実はこれ、 不合理だとわかっていても、その行動をしてしまう(禁煙したいのにタバコを吸う、やせたいのにカロリーが高いものを食べる等)人たちが持つ3つの傾向を克服する方法と同じなのです。
「努力できない病」とは「禁煙できない病」と同じで、明らかにその行動は不合理だ、そんな行動はするべきではナイ!と、頭ではハッキリと理解しているのに、それでも・どうしても不合理な行動をしてしまい合理的な行動ができない状態、「不合理な行動をしてしまう病」の一つです。
「わかっちゃいるけどやめられない」人の3つの傾向
「自分が今やってしまっている行動は、本当はやるべきではない不合理な行動だ」と、頭では十分理解していながらも、どうしてもその「やるべきではない不合理な行動」をしてしまう人には、以下の3つの傾向があります。
以上の3つの傾向を解消したうえで、その「不合理な行動をやめる」(あるいは「合理的な行動をする」)という本気の決断を、ハッキリとお腹のソコからくだすことができれば、不合理な行動(努力したいのに努力できない、禁煙したいのに禁煙できない)は、本当に治すことができるのです。
そして実は②の「不合理な行動が自分の無意識とどのように関係しているかを理解する」ことによって、①の「不合理な行動によって自分がうける被害や損失を無視する、もしくは過小評価する」という問題は、ある程度は解消することができます。
というのも、不合理だとわかっていながら、それでもその不合理な行動をしてしまう人は、自分では気づいていなくても、無意識の中でその不合理な行動を正当化しています。
不合理な行動を正当化している以上、どうしても不合理な行動を原因とした被害や損失を無視したり過小評価しないではいられません。
もちろん無意識とは、言葉の通り、自分ではハッキリとは意識できないものですが、大まかな傾向であれば、把握することは可能なのです。
次の章から、具体的に述べていく「努力できない病」にかかっている人にありがちな無意識の傾向を、まずはシッカリと理解しましょう。
そして、自分の中にも、そのような傾向がないか?真正面から自分自身と向き合い、正直に丁寧に、自分を観察してみてください。
今現在、「努力できない病」にかかっている人なら、これからご紹介する無意識の傾向の中の、なにかの要素が必ず自分の中にあるはずです。
こうして自分の中にある無意識の傾向を、まずは大まかで良いので把握します。
大まかな傾向がわかるだけでも、「決断」するための大きな助けになります。
ちなみに、先述したとおり、具体的な決断の仕方の詳細については、この本の一番最後の方で解説しています。
気づくだけではムリなこともある。
でも、単に「自分は実は不合理な行動を正当化していたんだ」ということに気づくだけでは、その不合理な行動によっておこる被害や損失を無視したり過小評価したりすることを、やめられない場合もあります。
なぜなら、もしもその人が「自分には、その不合理な行動をやめられる可能性は絶対にナイ!」と、心底信じこんでしまっている場合は、いくら「実は自分は不合理な行動を正当化していたんだ」というコトに気づいたとしても、やはりその不合理な行動によって自分が受けている被害や損失を直視するのが難しくなってしまうからです。
もしも「努力できる人にはなりたいけど、自分は何をしようと絶対に努力できる人にはなれない」と心から信じ込んでしまっていたら、そのツライ現実からは、なるべく目をそむけ直視したくない、と思うのが人情です。
ですから単に不合理な行動の正当化をやめるだけではなく、「自分にも不合理な行動をやめることはできるんだ!」という実際的な可能性もハッキリと理解できなくてはなりません。
そのために必要になってくるのが③の課題です。
「不合理な行動がなくなれば、どれほど自分が幸福になれるのかを実感的に思い描く」ことができるようになると、不合理な行動をやめられる実際的な可能性が見えてくるのです。
では、どうすれば「不合理な行動がなくなれば、どれほど自分が幸福になれるのかを実感的に思い描く」ことができるようになるのか?
それについては、後半部分で詳しく説明しています。
でも、まず最初は、この②の「不合理な行動が自分の無意識とどのように関係しているかを理解できていない」という問題から片付けていきましょう。
実は「努力できない」コトと、無意識の中にあるサド・マゾヒズム的な傾向や権威主義的傾向(この二つは実は同じものです)とには、大きな相関関係があります。
もしも自分の無意識の中にサドマゾヒズム的な傾向や権威主義的な傾向があれば、それは「努力できない」コトを正当化させます。
そして「努力できない病」を発病させ、かつ悪化させる原因の一つとなるのです。
サドマゾヒズム的傾向=権威主義的傾向とはどのようなものか、そしてなぜそれが「努力できない」ことを正当化するのか?について理解できていないと、それを取り除くこともできません。
ですから、その点が良くわからない人は、まず「SMが「努力できない病」を悪化させるのはナゼか?論理的に説明してみた。」を読んでから次の章「SM映画なんて見ちゃダメ」を読んで下さい。
ここではとりあえず「権威主義と同じものとしてのサドマゾヒズム的傾向」と、なぜそれが「努力できない病」を発病させ、かつ悪化させるのか?についてはすでにご理解頂いているという前提の上で話をすすめていきます。
では具体的にどうすれば、自分の無意識の中にあるサドマゾヒスティックな傾向や権威主義的な傾向を取り除き、努力できるようになるのか?
SM映画なんて見ちゃダメ
自分の中のサドマゾヒズム的な傾向や権威主義的な傾向を減らしたいと思うのであれば、まずは、あきらかにサドマゾヒスティックな、あるいは権威主義的な感情にエサを与えるような行為は避ける必要があります。
とうぜんサディスティックなあるいはマゾヒスティックな妄想を、性的妄想として楽しむのはやめる必要があるでしょう。
その手の本やマンガ、テレビ、映画や動画、サイトなども見ないようにしましょう。
また、権威主義的な努力や行動を美化したり正当化したりするような小説やマンガやテレビや映画(例えば、「巨人の星」のようなひどく横暴な父親であっても、その父親に決して逆らわず黙って耐え忍ぶ子供を美化するようなストーリー)なども、なるべく見ないようにする必要があります。
さらに、現代日本社会に生きる人々が特に気をつけるべきなのが、「親孝行」という美名で権威主義が正当化されるケースです。
「親孝行」が、どのようにして権威主義的な価値観を正当化してきたのか?を、しっかりと理解していないと、権威主義的な価値観を正当化してしまいがちです。
そして権威主義的な価値観を正当化している間は、当然ですが、その考え方を変えることはできません。
よって親孝行と権威主義的価値観の関係がよく解からない方は、まず「親孝行が「努力できない病」をつくることもあります。」を読んでから、この続きを読んでください。
ここでは取りあえず、親孝行と権威主義的な価値観の関係も、ご理解いただいているという前提の上で話を進めます。
現代日本社会に生きる多くの方は、「親孝行と権威主義の問題」を抱えていると思われるため、少なくても自分の「努力できない病」を克服するまでは、親孝行を美化したり賞賛したりするようなテレビや本や映画や漫画やサイトも避けたほうが良いでしょう。
また、この「親孝行と権威主義の問題」を理解することは、「子供のままでいたい」という性格傾向を克服するためにも必要なことなのです。
この「子供のままでいたい」という性格傾向は、人が権威主義的な価値観に染まってしまう原因のひとつであり、このような性格傾向もまた、努力できない病を治すためには克服する必要があります。
「子供のままでいたい」という性格傾向について詳しくは「生かされている、という考え方は危険かもしれない」を読んでください。
この「子供のままでいたい」という性格傾向を美化するような本や漫画、テレビや映画、サイトなども、かなり世の中には蔓延していますので、そのようなものもなるべく避けるようにしましょう。
例えば、「子どものような心を持つ」ということを心の美しさとして美化するようなものや、ナルシスティックな行動を美化したり正当化したりするものなどは、なるべく避けましょう。(努力できない病を克服するためには、夏目漱石やサガンやヘッセや村上春樹の著作を読むことを避けるべきだと申し上げているのは、このような観点からです。)
さらに良くありがちなのが、「破壊性」を中心とした性格傾向を、増幅したり美化したり正当化したりするような本や漫画、テレビや映画、サイトやゲームなどです。
「破壊性」もまた権威主義的な価値観を持つことから派生的におこりがちな性格傾向であり、これも努力できない病を克服するためには、正当化したり美化したりすることを避ける必要があるものです。
たとえゲームの中であれ、あきらかに破壊的な行動を行い、それを楽しむことは、自分の中の破壊性にエサを与える行為であり、そのようなことを続けるなら「努力できない病」は、ますます治せなくなっていきます。
破壊性を中心とした性格傾向について詳しくは「「努力できない病」と「努力せずにはいられない病」は同じです。」を読んでください。
ソクラテスのアドバイス
ふだん自分が、どんなものを読んでいるのか?見ているのか?聞いているのか?それがどれほど強烈に重大な精神衛生上の影響を自分自身に与えるのか?それをシッカリと理解することは、情報過多の現代社会に生きる私たちにとって、今まで以上に、ものすごく重要なことになってきています。
私たちは、得るべき情報と避けるべき情報をしっかりと見きわめる必要があります。
情報とは、つまり知識です。
知識は単に私たちの頭脳に影響を与えるだけではありません。知識は私たちの心にも、メンタルヘルス上の問題にも、非常に大きな影響を与えます。
それは良い影響の場合もあれば、悪い影響の場合もあります。
では、どのような知識が人間の心に良い影響を与え、どのような知識が人間の心に悪い影響を与えるのか?
あの有名な賢人ソクラテスが、この点について言及していますので、ちょっと彼の言葉を聞いてみましょう。
プラトンが書いた「プロタゴラス」の中に出てくるソクラテスの言葉をご紹介いたします。
間違いなく知識こそが、心の栄養だよ。
でもね友よ、僕たちは気をつけなければならない。
ソフィスト(倫理を教える教師)が、自分の知識を売るために、それを良いモノだとほめて僕たちを騙さないと思うかい?
体の栄養になるのは食べ物だ、でも商人は自分たちが売る商品である食べ物の、どれが体に良くて、どれが体に悪いのかを本当には知らない、なのに自分たちが売るものはすべて良いモノだとほめて売ろうとする。
買う方だって同じだ、専門のトレーナーや医者以外はそれを食べたらどうなるのかを、本当には知らないで食べ物を買う。
これと同じようなやり方で、商品としての自分の知識を持ち歩き、それを売ろうとする人は、それを買おうとする人たちに対して、自分の知識をほめて売ろうとする。
でもね、不思議なことじゃないが、ああ友よ!知識を売る人のほとんどが、彼らの知識が、人の心にどんな影響を与えるのかについてまったく無知だし、それを買う人も同様にまったく無知なんだ、心の医者以外はね。
だからもし君が何が良いか悪いかを理解しているなら、君はプロタゴラスからでも誰からでも知識を買ったって安全さ。
だけど、もしそうじゃないとしたら、ああ友よ!ちょっと待ってくれ、そんな危険なことはやめてくれ、君の一番大切な財産を偶然に賭けるなんて。
知識を買うのは飲み物や食べ物を買うよりも、はるかに多くの危険があるんだよ。
そうです。
私たちのほとんどは「心の医者」ではありませんから、何が自分の心に栄養を与え、何が自分の心の毒になるのかを知りません。
そんな状態のままで、簡単にネットから得られてしまう知識を、どんどん手あたり次第、取り入れていれてしまうのは、どれほど危険なことでしょう。
エーリッヒ・フロムは現代のソクラテスだ
では、どの知識が心の栄養になり、どの知識が心の毒になるのかを知っている、心の医者とは誰でしょうか?
プラトンの時代で言うならソクラテスその人でしょう。
現代ならば私のお勧めは、マルクスとフロイトを統合したと言われている20世紀最大のヒューマニストの一人、エーリッヒ・フロムです。
実は上記のプラトンの文章はエーリッヒ・フロムの著書「人間における自由」の冒頭に引用文としてあげられているものなのです。(この記事中の邦文は私が訳しました)
興味をひかれた方は、ぜひ読んでみて下さい。
ただフロムの本は、最初にも申し上げた通りに、いわゆる教養書と言われるような種類の本なので、読むのが難しいとか、面倒だ、と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
そのような方のために、この記事だけでなく今後少しづつフロムの本の内容を分かりやすくご紹介していくつもりです。
そして、この情報過多時代において、より切実な問題は、心の栄養となる知識をどうやって取り入れるかという点よりも、心の毒となる知識をどうやって遠ざけるか、という点です。
一番やっかいなのが、一つの書籍、あるいは映画、漫画、などの中の一部分にだけに「栄養」が混ざっていて、残りの大部分は「毒」というパターンが非常に多いことです。
これほどの大量の情報の中でも「毒」が混ざらずに「栄養」となる知識だけで出来ているものは、とても少なく、まさに一握りあるかないか、くらいのものでしょう。
心の栄養となる知識にはものすごく大きな価値があります。
それは本当に優れて素晴らしく、とても・とても・とても大切なものです。
けれども、実際に世の中に存在しているほとんどの知識は、たんに「毒」だけで出来ているか、あるいは「栄養」がホンのちょっとだけ混ざった「毒」ばかりです。
そしてそれが現代における「反知性主義」的な傾向に力を持たせている理由の一つではないかと思います。(もう一つの大きな理由はフェミニズムとの関連があると思っていますがこれについてはまた別の機会に書きます)
でも「反知性主義」は決して正しい答えではありません。
私たちは、どの知識が毒となり、どの知識が栄養となるのかを「心の医者」に教えてもらったうえで、栄養となる知識を摂る必要があるのです。
現代のソクラテスであるフロムの著作を読み、ぜひその見分け方を身につけてください。
そうやって自分の心の中からなるべく毒を取り除き、栄養を取り入れていきましょう。
でも、まだフロムを読み込めなくて、毒と栄養を見分けられない場合は、どうすれば良いでしょうか?
情報断食しよう
もしもあなたがまだ「心の医者の知識」を持たず、どの情報が毒となるのか?あるいは栄養となるのか?を見分けられないなら、今ある情報のほぼ9割近くには毒が混ざっていますので、毒入りのものをとるくらいなら、むしろ断食した方がずっと健康になります。
試験的に一度すべての情報を遮断してみてください。
週末などの時間の取れる時に、1日か2日で良いので実験的に、新聞、雑誌、テレビ、ビデオ、DVD、インターネット、漫画、本、ラジオ、フェイスブック、ツイッター、メールや電話、音楽なども、全ての「情報」をいったん遮断して、自分がどういう状態になるのかを観察してみましょう。
もしも明らかに、落ち着かない、ソワソワする、不安感、空虚感、などの感情がおこってくるようであれば、毒に侵されている証拠です。
最低でも3週間以上、できれば8週間以上、電話やメールなど、どうしても日常生活を送るうえで取り入れざれるを得ない情報以外はすべての情報を遮断して、どれほど自分が元気になるかを確認してください。
人によっては禁断症状(落ち着かない、ソワソワする、不安になる)の出方が強すぎて、いきなり3週間の「情報断食」をするのが難しい場合もあります。
そんな時は、後半部分の「24もっと健康になろう」でお勧めしているアンドルーワイルの「心身自在」の8週間プログラムの中の「ニュース断ち」のスケジュールと同じようにやってみましょう。
①情報断食をはじめて最初の3週間は1週間に1日だけ情報断食を行います。
②4週間目には、週に2日、情報断食を行います。
③5週間目は、週に3日、情報断食を行います。
④6.7週間目は、週に4日、情報断食を行います。
⑤8週間目に1週間を完全に「情報断食」をします。
こうして完全に1週間「情報断食」ができたら、その後、最低でもあと2週間「情報断食」を続けましょう。
それでもまだやれそうだったら、更にあと5週間続け全部で8週間の「情報断食」を行うという風に少しづつ増やしていくのも良いでしょう。
仕事柄、どうしても3週間も情報を遮断するわけにはいかない人などは、せめて週末だけでも一切の情報を遮断して毒抜きをしましょう。
今まで情報を得るために使っていた膨大な時間が空きますので、その時間を使って「がんばれない・努力できない人」なら必ず大量にやり残しているはずの「やるべきなのに、やってないこと」「やりたいのに、やってないこと」をやりましょう。
自分は明らかにスマホ中毒だ、あるいはテレビ中毒だ、という自覚がある人なら、いったん思い切ってテレビやスマホを捨ててしまう、というのもアリだと思います。
「努力できない人」のままでは、どれほど才能があろうともマトモな結果なんて何一つ残せないということはわかっていますよね?
ここでテレビをあるいはスマホを捨てるかどうかにあなたの将来すべてがかかっているのです。躊躇している場合ではありません。
ただ実際問題として、家族と同居していてテレビを捨てるわけにはいかないとか、仕事上どうしてもスマホを捨てるわけにはいかない、という場合もあると思います。
テレビ中毒、スマホ中毒の自覚のある人にとって、イキナリ捨てるという選択肢が閉ざされてしまった場合、実はアンドルーワイルのニュース断食のプログラムのように少しずつ離れていくという方法は、実行するのがかなり難しいケースが多いと思いますので、そんな方に向けてとっておきのアドバイスを。
スマホやテレビを捨てることなく3週間ではなく10日間ですが、強力に、そして、ほぼ無料で「情報断食」をサポートしてくれる施設があります。
それは、ヴィッパサナー瞑想の10日間コースというものです。
この10日間はスマホやPC、テレビなどはもちろん、どんな書籍も新聞も雑誌もマンガもラジオも音楽も、すべて禁止され、ありとあらゆる情報が一切遮断されます。
何もかも読まず聞かず、文字も書かず、誰とも話さず、目すら合わせず、あらゆる情報をシャットアウトして、ただただ10日間、自分の中にひきこもり瞑想だけをするのです。
しかも参加費はいわゆるオココロザシなので、極論1円でもイイというすばらしいコースです(実際に私が参加した時には、ほとんどの方が1万円払っていたようですが…。)
瞑想のやり方も色々あり、私の一番のお勧めの瞑想法は、このヴィッパサナー瞑想ではなく、ふだんから私が実行している「自然な呼吸に集中する瞑想」なのですが、ヴィッパサナー瞑想を完全に否定しているというワケではなく、実際に私もこのヴィッパサナー瞑想の10日間コースに参加したこともあります。
ですからテレビ中毒やスマホ中毒の自覚はあるけれども、何らかの事情でそれらを捨てることができない方や、どうしても徐々に情報断食をするのが難しい場合は、場合によっては(宗教的なものに流されない自信と、強烈な自我の強さがあり、ヨガや瞑想について広く詳しい知識と実践経験がある方なら)試してみるのも良いかもしれません。
ただ一点だけ注意をしておきますと、この瞑想コースでは仏教的な講和を聞く時間があり、この講和の内容には少し注意をはらう必要があります。
毎回というわけではありませんが、時によっては「自我の執着を克服する」という目的のためだと思われますが「自分というものは幻想だ」といった趣旨の話がされます。
このような考え方は「我は持つ、ゆえに我あり」といったタイプのアイデンティティーを持つ人が、心のバランスをとるためのアドバイスとしては効果的な考え方です。
けれども、この手のアドバイスは、「努力できない病」の人にありがちなタイプである「我とは、なんじが我に期待するところのものなり」といったアイデンティティーを持つ人にとっては、むしろ逆効果になる可能性がとても高いのです。
ですから、もしあなたが今現在「努力できない病」に苦しんでいたとしても、宗教的なものに流されそうな方、強烈な自我の強さのない方、ヨガや瞑想について広く詳しい知識と実践経験がない方は、このコースには参加されない方が良いと思います。
ちなみに、私は2018年の2月にこのヴィッパサナー瞑想の10日間コースに2度目の参加をしました。その時の詳細については、「瞑想だけ徹底的に10日間やってみたら覚醒した?」という記事に記載しておりますので、ご興味がある方は読んでみて下さい。
なお、このブログの後半部分の「24もっと健康になろう」まで読んでいただけると分かるのですが、「努力できない病」を治す具体的な方法の一つとして、アンドルー・ワイルの呼吸法をお勧めしています。
そしてアンドルーの呼吸法の中の「自分の呼吸を観察する」というのは、ほぼ瞑想と同じで、この呼吸法だけでも努力できない病を治すための効果はありますが、より根本的に努力できない病を治すために一番お勧めなのは何といっても本格的な瞑想です。
そして本格的な瞑想のやり方の詳細についてはアンドルーの本には書いてありませんので、具体的かつ、詳細な瞑想のやり方については「18年間瞑想を続けてきた私が、瞑想のやり方を超具体的に書いてみた」を読んでください。
なぜ、アンドルーの呼吸法や上記の瞑想が「努力できない病」に効果があるかというと、それが無意識のうちに正当化しているかもしれない不合理な考え方から自分自身を解放する手段であり、同時に強力な情報断食でもあるからです。
8章の「「わかっちゃいるけどやめられない」人の3つの傾向」でも説明した通り、努力したいのに努力できない人は、自分の無意識の中に「努力しない」という行動を正当化してしまうような考え方をもっています。
けれども無意識とは正にその言葉のとおり自分ではハッキリと意識できない領域です。
自分自身の心の中を詳細に観察することにより、その大まかな傾向くらいはつかめますが、本当の細かいところや、具体的な状況までは解かりません。
ですから、下手をすると自分では気づかないうちに無意識の中で、24時間絶えまなく「努力できない病」を正当化してしまうような不合理な考え方を(夢の中ですら)してしまっている可能性もナイとは言い切れません。
けれども瞑想している間だけは、たとえホンの5秒でも自分の呼吸に集中することができれば、その間だけは、そういった不合理な無意識から解放されます。
つまり、瞑想は、自分の中にある自分では気づいていない不合理な情報を、完全に自分自身からシャットアウトするための唯一の情報断食でもあるのです。
依存と愛とは違います
こうして新たな毒が自分の中に入ってくるのを防いだら、次に、もう既に自分の中に採り入れてしまった毒を探し出し、それを取り出しましょう。
自分の中の、サドマゾヒズム的な傾向を減らすためには、自分のマゾヒスティックな依存心やサディスティックな支配欲を「愛情」や「成功願望」として正当化するのをやめる必要もあります。
マゾヒスティックな依存行動はしばしば愛情と誤解されます
相手だけを大切にして自分のためには何も望まない態度や、相手のために完全に自分を犠牲にする態度、相手のために自分の権利や主張をすべてゆずってしまうような態度は、一般的には「偉大な愛」として賞賛されがちです。
でも実際にはそれらの態度は、本来の意味での「愛」ではなく、マゾヒズム的な情熱であり、その人の中にある「誰かに完全に服従し依存したい」という欲求の現れです。
もしも「愛」とは、ある人の本質を心底から強く素晴らしい、と思うことであり、その人に対して積極的に関わろうとする態度のことをいうのであれば
もしも「愛しあう関係」とは愛する者同士がどちらも、自分の個性を失わずに自分を偽らずに、愛する相手と強く結びつくことができる関係をさすのであれば
マゾヒズムと愛は対立するものです。
愛は平等と自由にもとづくものです。
もしもその関係が、どちらか一方の服従と自分の個性の放棄にもとづくのであれば、いかに美しい言葉で飾ろうともその関係は「愛」の関係ではなくマゾヒズム的な依存です。
またサディズム的な「支配」も、よく「愛」と混同されます。
もしもその人の「ためを思って」支配するのであれば、その人を支配することもまた一つの「愛のカタチ」であると。
サディストは成功がお好き
さらにサディスティックな行動はしばしば「野心」や「成功願望」という言葉でも、正当化されます。
実は「権力をもとめる願望」こそが、サディズムの最も重要な表現方法なのです。
もしもあなたの「成功願望」が、実はあなたの中にひそむサディズムの表現だとしたら、たとえ、そのやり方で「成功」したとしてもやはり幸福には、なれないかもしれません。
権力は人を「支配できる力」であり、確かに人を「支配できる力」は物理的な意味においては「より強い力」を指します。
もしも私がAさんを殺す力を持っているとすれば、私はAさんよりも「強い人」ということになります。
しかし、心理学的な意味では「権力を渇望する人」は、強い人ではなく弱い人です。
それは、一人の個人としては独立する能力がないこと、誰かを支配せずには生きられないことを表しています。
それは真の強さが欠けているときに、それを何とかしようとする絶望的な挑戦です。
真の強さを獲得しなければ、「自分を偽らず、自分の個性を失わずに、自発的に人を愛したり自発的に何かを創り出す」(←これについて詳しくはコチラをクリックしてください。)ことはできません。
そして、自分を偽り、自分の個性を失って得た「成功」だとしたら、その生活が果たして本当に「幸福な生活」と言えるでしょうか?
自分を支配できない人は、他人を支配したがる
「あの人には力(ちから)がある」という場合、ここで言われている「力」という言葉には2つの意味があります。
第1は、「他人に対して力をもっている」ということで「他人を支配する力」を意味します。
第2は「何かをする力をもっている」ということであって「能力があること」を意味します。
この第2の意味での力は、支配とは無関係です。それは「能力や熟練」を意味します。
こうして「力」とは、「支配」か「能力」かの二つに一つを意味します。それは同じどころか、お互いに相容れない性質をもっています。
インポテンツという言葉は単に性的な領域だけでなく、あらゆる領域に用いることができます。インポテンツな人間は、支配とサディズムへと向かいます。
自分が可能性としてもっている潜在能力を実現できればできるほど、つまり「何かをすることができる能力」が増えれば増えるほど、その人は支配する必要がなくなり、権力を求める必要がなくなります。
これは逆にいえば、何かをする能力(それはもちろん「努力する能力」も入ります)を獲得するための第一歩として、まずは権力を渇望したり、人を支配したりすることをやめる必要があるということです。
しかしながら「成功」のすべてがダメなわけではありません。
それでは私たちが避ける必要のある権力とは何か?
それを知るために権力を持った者、つまり「権威」について、もう少し詳しく考えてみましょう。
権威とはなにか?
そもそも「権威」とは、ある人が「持っている」性質ではありません。
「権威」とは、ある人が別の人を自分より上の人間として見上げるような人間関係、つまり上下関係の中にのみ、存在するものです。
けれどもそこには「理性的・合理的権威」と名付けることのできるような上下関係と、「禁止的・非合理的権威」と名付けることができるような上下関係があります。
では理性的・合理的権威とはどのようなもので、禁止的・非合理的権威とはどのようなものでしょう?
上下関係にも色々ある
理想的な教師と生徒の関係も、主人と奴隷との関係も、ともに上下関係です。
理想的な教師は、生徒の能力をのばすことができれば満足します。
生徒が自分の能力をのばすことができなければ、それは生徒の失敗でもあり同時に教師の失敗でもあります。
両者の利害は一致しています。このような権威が理性的権威です。
またこのような理性的権威は、同時に合理的な権威でもあります。
合理的な権威は、常に権威を持つ人の「能力」に由来します。
ある人の権威が尊敬されるということは、その人が他人によって託された仕事を、上手に処理する能力がある、ということです。
この種の権威を維持するために、他人をおどす必要もなければ、賞賛を強いる必要もありません。
他人を食い物にしようとせずに、自分の力をうまく他人に貸してあげる場合、その人の権威は合理的な基盤を持っていますので、人に畏怖を要求する必要はまったくありません。
合理的な権威は自分の権威の元となる知識や能力を、自分に従う立場の人が、絶えず吟味し、批判することを許すばかりではなく、それを要求しさえします。
この種の権威とは常に一時的なものであり、それが受け入れられるのは、その権威がもつ効用のためです。
理性的・合理的権威をもつ人と、それに従う人との関係は平等を基礎としていて、両者の違いは単に特定の分野における知識や技能の程度の差という点にのみ、あります。
一方、主人と奴隷の関係はどうでしょう?
主人はできるだけ奴隷から搾取しようとします。奴隷から多く搾取するコトが出来れば出来るほど主人はいっそう満足します。
同時に奴隷の方も例えホンの少しであっても、なるべく搾取されずに済むように、自分の取り分を確保しようとします。
両者の利害は対立しています。このような権威が禁止的権威です。
またこのような禁止的権威とは非合理的な権威でもあります。
非合理的な権威は、常に権威を持つ人の「支配力」に由来します。
この支配力とは肉体的支配力である場合も、精神的支配力である場合もあります。
また権威に従う人は、常に「不安と自分自身にたいする頼りなさ」を感じている必要があります。この不安や頼りなさは現実に根拠がある場合もあれば、ない場合もあります。
どんな場合でも、非合理的な権威を築き上げるためには一方には支配力が、もう片方には不安が絶対に必要です。
権威に対する批判は要求されないどころか禁止されます。
禁止的・非合理的権威を持つ人と、それに従う人との関係は本質的な不平等を基礎としています。
両者がもつ人間としての価値もまったく違います。
権威をもつ人と権威に従う人は本質的に違う種類の人間であり、両者は決して平等にはならない、と前提されているのです。
上下関係はどう働くか?
この2種類の権威にとって、上下関係はまったく違う機能を持ちます。
理想的な教師と生徒の場合、それは権威に服従する人間を助ける機能となります。
主人と奴隷の場合、それは権威に服従する人間から搾取する機能となります。
この二つのタイプの権威における、時間の意味もまったく反対です。
時間がたてばたつほど生徒は教師から学び、生徒と教師の間のギャップは小さくなり、生徒はどんどん教師と似た能力をもつようになるため能力差は縮まります。
時間がたてばたつほど奴隷は主人から搾取され、消耗していくため、主人と奴隷の間の能力差は広がっていきます。
感謝と敵意
心理的にもこの二つの権威は違います。
理想的な教師と生徒の場合、愛情、賞賛、感謝が主な感情となります。
ここでの権威とは、権威に従う人が、部分的にあるいは全面的に、自分を権威と同一化したいと望む模範だからです。
主人と奴隷の場合、反感や敵意が主体となります。
主人という権威に服従することは奴隷の利益に反しています。けれども奴隷の場合、いくら憎んでも主人に勝てる可能性はほとんどなく、憎しみは服従の苦痛を増すだけです。
そのために憎しみの感情をおさえ、ときに盲目的な賞賛の感情に置き換えようとする傾向が生まれることがあります。これは二つの機能を持ちます。
一つ目は、憎しみという苦痛に満ちた危険な感情をとりのぞく機能であり、二つ目は屈辱的な感情をやわらげる機能です。
もしも私を支配する人間が、何一つ欠点のない賞賛するべき完璧な人であれば、私はその人に服従することを恥じる必要はありません。
権威となる人が、鬼神のように強く、天才のように賢く、何もかも全てが完璧な人ならば、普通の人間が、そんな人と対等になれるはずもありません。
つまり禁止的・非合理的権威の場合、時間がたつにつれて、憎悪か、あるいは非合理的な過大評価や賞賛が増大していくのです。
理性的・合理的な権威の場合、時間がたつにつれて、権威に服従している人間はだんだんと強くなり、権威に似てゆくため(感謝は減らないとしても)権威に対する賞賛的な感情は小さくなっていきます。
けれども、理性的・合理的権威と、禁止的・非合理的権威の差には、単に相対的な差に過ぎない点もあります。
奴隷と主人の関係であっても奴隷にとって利益になる部分もあります。
奴隷は少なくとも主人のために働くことができるだけの最小限の食べ物と保護は与えられるでしょう。
一方、まったく利害の対立がない教師と生徒の関係も一つの理想にすぎません。
ブラック企業の社長と従業員、強権的な父親と息子、ワンマン亭主と主婦など、この二つの両極(主人と奴隷の関係と、理想的師弟関係)のあいだには多くの段階があります。
さらに現実にはこの2種類の権威は、混ざっていることがほとんどです。
それでもやはりこの二つの権威は本質的に異なっています。
個々の場面を一つ一つ観察して、常にどちらの種類の権威の傾向が高いかを判断することが大切です。
そして、禁止的、非合理的な傾向をもつ権威にたいしては、つねに「ノー」と言い、反抗する勇気を持つ必要があります。
しかしながら、人が以前は服従していた禁止的・非合理的権威にたいして「ノー」と言い反抗する勇気をもつことは、実は非常に難しいのです。
なぜなら、まず第一に、禁止的・非合理的権威は、つねに支配力や暗示などにもとづく強制力を持っているため、権威に服従する人間が権威に反抗するためには、その強制的な支配力に逆らうだけの勇気が必要になってきます。
これだけでも中々難しいことです。
しかも更に問題となるのが、権威に服従する人間は、その支配に服従しているあいだは、自分は安全で保護されていると感じることができる、という点です。
人が服従する禁止的・非合理的権力とは、たとえそれがどのような権力であっても(国家であろうと、会社であろうと、親であろうと)それはいつでも同じです。
それらの権威はつねに何らかの形で「力を使い」全知全能を詐称する制度、もしくは人間なのです。
服従する人は、その全知全能的な権力の一部になることができる、と感じますので、その権力に服従しているあいだは、自分も強いと感じることが出来ます。
「権力が私に代わってモノゴトを決定してくれるのだから、私がアヤマチをおかすはずがない。」
「権力が私を見守ってくれるのだから、私が孤独になるはずはない。」
「権力が許さないから私が罪を犯すはずがない。かりに罪をおかしたとしても権力に服従さえしていれば、罰を甘んじて受けることによって私はまた全能の権力の下に戻ることができる。」
禁止的・非合理的権威に服従する人はこんな風に感じます。
よって、禁止的・非合理的権威に「ノー」という勇気をもつためには、アヤマチをおかし、孤独になり、罪を犯す勇気が必要になってくるのです。
けれども勇気だけでは十分ではありません。
勇気をもつ能力は、その人間の成長の度合いに左右されます。
母親のおっぱいと父親の支配から脱出し、十分に成長した個人となり、自分自身の頭で考え、自分自身で感じる能力を身につけたとき、はじめて人は禁止的・非合理的権威にノーと言い、反抗する勇気をもつことができます。
人は禁止的・非合理的権威に「ノー」と言い、反抗することができれば自由になれます。
けれども「反抗できれば自由になれる」ということは、逆に言えば、「自由になれてはじめて反抗できる」とも言えます。
もしも自由を恐れていたら反抗することはできません。自由と反抗する勇気とは切り離すことは出来ないのです。
よって、どのような社会的・政治的・宗教的なシステムや団体が自由を口にしようとも、その一方で反抗をおさえるようであれば、その自由は嘘っぱちです。
あえて反抗し、禁止的・非合理的権威にノーと言うことが難しい理由は、他にもあります。
人類の歴史の大部分において、服従は美徳と同一視され、反抗は罪と同一視されてきました。
その理由は簡単です。少数者が多数者を支配してきたからです。
少数者が支配を必要とするのは、世の中のイイモノは少数者の分しかなく、多数者のためにはクズしか残らないという事実のためです。
少数者がイイモノを楽しむことを望み、そのうえ多数者の奉仕と労働を望むのであれば、それには必要な条件が一つあります。多数者に服従を覚えさせることです。
もちろん服従は力によって強制することもできますが、このやり方には多くの不都合な点があります。
いつかは多数者が少数者を逆に力で倒す手段を獲得するかもしれないという恐れが常につきまといますし、また恐怖心だけで服従するようでは上手く出来ない仕事がたくさんあるからです。
ゆえに、恐怖による服従を、心からの服従に変える必要があります。
反抗することを恐れる気持ちの代わりに、服従することを心から望み必要とさえする気持ちを多数者の中に植えつけなければなりません。
これを実行するためには、権力は「もっとも善良」で「もっとも賢明」で「全知全能」であるかのように見せかける必要があります。
もしも権力が、もっとも善良でもっとも賢明で全知全能なら、反抗は罪で服従は美徳だと大衆に宣言することができます。
そして一旦、このような仕組みができれば、多数者は自分自身を臆病者として自己嫌悪に陥ることなく、服従を善として受け入れ、反抗を悪であるがゆえに嫌悪することができます。
けれども実は、現代社会における問題は、このような、あからさまな権威の問題ではありません。
現代社会における権威とは、昔の権威のように「あれをしろ、これをしてはいけない」と命令するような個人や制度であるとは限らないのです。
こういった権威は自分の外側に権威があることから、外的権威と名付けることができます。
この外的権威は、良心、義務などの形で、自分の心の内側に入り込み、内的な権威としてあらわれることもあります。
けれども、たとえ心の内側に外的権威が移動しようとも、やはりそれはハッキリとした「権威」であることには変わりありません。
けれども「現代の権威」はこのような外的な権威あるいは内的な権威のように、はっきりとした「権威」としての形がナイ場合の方が圧倒的に多いのです。
では現代の権威とはどのようなものでしょうか?
目に見えない権威
現代ではハッキリとした権威に代わって「匿名の権威」が支配するようになりました。
それは、常識、科学、健康、正常、世論、といった種類の権威です。
この種の匿名の権威は、当然なことだけしか要求しないように見えます。この種の権威は強制するのではなく、おだやかに説得するように見えるのです。
母親は娘に、頭から押さえつけるように「あんな男の子とつきあってはいけません!」とは言わず、「まさか、あなたは、あんなヘンな男の子とデートしたいなんて思わないでしょう?(笑)」と言います。
広告は「このコーヒーを飲んでみませんか?きっとお気に召していただけるでしょう」と暗に示すだけです。
私たちのすべての生活を、こういった微妙な暗示的な雰囲気がおおっています。
匿名の権威はあらわな権威よりも効果的です。
というのも、人はそこに「服従するように計画された秩序」があろうとは想像もしないからです。
この匿名の権威の特徴は、一見「理性的権威」を装っていながら、実は「禁止的権威」の機能を持つという点です。
外的権威の場合には、秩序があり命令する人がいるということがハッキリしています。
権威というものがハッキリと存在するのであれば、人は思いきって、その権威に反抗し、それと戦うこともできます。
そしてこの戦いの中で自分の独立性と道徳的な勇気を発達させることもできます。
また内的権威の場合でも、命令は内的なものであっても、やはりそれをある種の命令として認識することができます。
ところがこれに対して匿名の権威の場合は、命令も命令する人も、目に見えないものになっています。
それは目に見えない敵によって攻撃を受けるのに似ています。戦うべき何物も存在しないのです。
自分の中の権威主義的傾向を減らしていくためには、こういった匿名の暗示的権威にも注意を払い、それに操られないように気をつける必要があります。
匿名の権威に操られないように自分の身を守るためにも、第13章でお勧めした「情報断食」は有効な手段です。
以上のようにして、今まで自分が無意識のうちに正当化していたサドマゾヒズム的な傾向や、権威主義的な傾向などをまずはハッキリと意識しましょう。
そして、これまでどれほど自分が、それらの傾向にあやつられてきたのか?にハッキリと気づくコトによって「不合理な行動をしてしまう人が解消するべき3つの傾向」のなかの、②の「不合理な行動が自分の無意識とどのように関係しているかを理解できていない」という問題は解決することができます。
けれどもこれだけでは、①の「不合理な行動によって自分がうける被害や損失を無視したり過小評価したりする」という問題は完全には解決することができません。
最初のほうでもご説明しましたとおり、単に自分の中にある不合理な傾向の正当化に気づくだけでなく
「自分はその不合理な行動をやめることができる」という現実的な可能性をハッキリと実感をもって知ることができなければ、やはり苦しい現実からは目をそむけたくなるのが人情です。
ここで「不合理な行動をしてしまう人が解消するべき3つの傾向」の③の問題、「不合理な行動をしなくなれば、どれほど自分が幸福になれるのかを実感的に思い描くことができない」という問題を解決する必要性が出てきます。
では③の問題を解決するためにはどうすれば良いか?
引いてから足します。
この③の問題「不合理な行動をしなくなれば、どれほど自分が幸福になれるのかを実感的に思い描くことができない」を解決するためには、
という今までご紹介してきた2つの「毒となる知識」を取り除いていく行動に加えて、新たにもう一つ、今度は
では「栄養となる知識」とは何でしょうか?
それはソクラテス等に代表されるような「人道的」と言われるような種類の知識です。
「人道的な知識」として、私のおすすめはなんといってもエーリッヒ・フロムの著書です。
そして「努力できない病」を治すための直接の示唆があるのは冒頭にお伝えした通り「精神分析と宗教」「人間における自由」「自由からの逃走」の3冊であり、できればこの3冊を直接読んで頂きたいのですが、この3冊には少し専門用語も含まれており、翻訳にこなれていない点があるのも事実です。
よって、どうしてもこの3冊がとっつきにくいという場合、フロムの本の中でも一番有名で一番読みやすい「愛するということ」を読んでみてください。
この本の邦題は「愛するということ」ですが、もともとの原題は、「THE ART OF LOVING」ですから、直訳すれば「愛の技術」です。
この題名があらわすとおり、この本のまず第一の大前提は、「愛というものは、その人間の精神的な成熟度とは関係なくだれもが簡単に持てる感情ではない」ということです。
この本の冒頭には以下のように書かれています。
自分の人格を向上させ、それが生産的な方向(創り出す・生み出す方向)に向くように全力をあげて努力しないかぎり人を愛そうとしても必ず失敗します。
満足のゆくような愛をえるには、隣人を愛することができなければならないし、真の謙虚さ、勇気、信念、規律をそなえていなければなりません。
これらの特質がまれにしかみられない社会では愛する能力を身につけることは簡単ではありません。
このような意味で人を愛する能力を身につけるためには、「努力できない病」を克服する時と同じように「不合理な考え方」を変える必要があります。
つまり、この本に書いてあるような意味での愛する能力を身につけるためには、サドマゾヒスティックで権威主義的な考え方や、破壊的な考え方、子供のままでいようとする考え方、などを変える必要があるのです。
もちろん、「愛するということ」に書かれているような意味で人を愛せるようになるためには、こういった考え方を変えようとするだけではなく、他にもまだまだやるべきことは多いのですが、もしもこの本に書いてあるような意味で人を愛することができるようになるならば、当然その時は「努力できない病」も克服されていることになります。
よって「努力できても愛せない」ことは有り得ても「愛せるが努力できない」ことは、有り得ないため、少し遠回りなようですが、愛することができるようになることは、努力することができるようになることでもあります。
ですからもしもあなたが「愛せるけど努力できない」のだとすれば、あなたが思っている「愛」とは本当の意味での愛ではなく、依存心だったり支配欲だったり、あるいはその感情にに流されることが自分にとっても「愛する」相手にとっても問題になる場合があるような「情」でしかなく、それは暖かく安定してはいても、自由と独立を基礎とする人間としての愛ではないのかもしれません。
よって、この「愛するということ」を読み、その内容を実践することは、単に心の栄養になるというだけでなく、同時に努力できない病を克服する方法でもあるのです。
キンドル版がありませんので紙の書籍を自分で電子化するか、電子化できない方は、紙の書籍のままでも、常にそれを持ち歩き、いつでもどこでも何度も何度も、本なんてすりきれてボロボロになり、2.3度買いなおすくらいまで読み込んでいって「栄養となる知識」をしっかりと自分の血肉としてください。
そして「愛する練習」を少しずつでも実践していきましょう。
生命力を高めよう
でも、こうして心の栄養をとりいれるだけでは、まだ片手落ちです。
心と体とは一体であるため、毒の知識で心が弱っているときには、同時に体も弱っています。
また、心は非常に複雑でそれを直接コントロールするのは大変むずかしいために、まずは体の部分からアプローチしていくのが近道でもあります。
体からのアプローチとは、つまり自分の体の「生命力」を増していくということです。
実は、サドマゾヒズム的な性格や権威主義的性格というものは、人間の「生命力」が、ゆがんだ結果と見ることもできるのです。
生き物というものは、人間だけに限らず、ドングリでも、コオロギでも、馬でも、もともと自分が潜在的に持っている可能性を発展させ、開花させ、成長し、生きようとする力=生命力(生命エネルギー)をもっています。
しかしながら、様々な理由によって、その生き物が持っている「潜在的な可能性を開花させようとする力、成長しようとする力、生きようとする力」が抑えつけられてしまうと、その力は歪められ、逆に「その生き物を破壊する力」となります。
つまりドングリであれば「大きく生き生きとした樫の木に成長するチカラ」が抑えつけられてしまえば、その同じエネルギーが、ドングリを「グジャグジャになりイヤな臭いをたてる灰色の変形した半固形物にする力」となります。
人間であれば「自分がもつ可能性を実現させ、人間として成長し、より生き生きとし、自発的に人を愛し、自発的に何かを作り出し、生み出す力」がおさえつけられてしまえば、その同じエネルギーが、人間を「サドマゾヒスティックで権威主義的で幼稚で破壊的な人間にするチカラ」となります。
よって、抑えつけられ、歪められてしまった自分の中の生命力を、正しい方向に開放することができれば、そのエネルギーが「サドマゾヒスティックで権威主義的で幼稚で破壊的な人間」に自分をしてしまう方向に流れていくのをやめさせることができます。
では「自分がもつ可能性を実現させ、人間として成長し、より生き生きとし、自発的に愛し、自発的に何かを生み出す」ためには何をすれば良いか?
これはトートロジーですね。
だって「自分がもつ可能性を実現させ、人間として成長し、より生き生きとし、自発的に愛し、自発的に何かを生みだす」ことこそ「自分のためにコツコツとした努力ができる」ってことですから。
そしてそれができなくて苦しんでいるのですから。
ですから、まずは手をつけやすいところからやっていくわけです。
まずは自分の体が、「潜在的な可能性を開花させ、成長し、より生き生きと」するためにはどうすれば良いか?ということから考えましょう。
もしもあなたがスモーカーならまずは禁煙してください。
正しいやり方で禁煙すれば、タバコを吸っていたころにくらべてずーっとイライラしたり落ち込んだりすることが減り、とても気持ちが明るくなり生き生きとしハツラツとします。
また日常生活におけるストレスレベルが一段ガクンと下がり精神的な安定感が非常に増し、日常生活におけるリラックス度がグンとあがります。
そして肉体的にはモチロンですが、精神的にもずっと強くなることができます。
正しい禁煙の方法についてはこちら→「まったくガマンしないで禁煙できるただ一つの方法」を読んでください。
どんなに重症の「努力できない病患者」であっても、我慢などはマルでしないで、ウソのようにラクラク簡単にタバコがやめられるたった一つの方法です。
お金もかかりません、薬も使いません、催眠療法もいりません。
もっと健康になろう
もしもあなたがスモーカーでないのなら、あるいは前記の方法で禁煙をなしとげたら、次にやることは、まずは今よりも「体の健康度」をあげることです。
まさに「健全な肉体に健全な精神が宿る」です。
では「体の健康度」をあげるためにはどうすれば良いか?
ここで私が「体を鍛えよう」という風には書かなかったことに注目してください。それは全身筋肉ムキムキのマッチョマンが、かならずしも「体の健康度」が高いとはかぎらないからです。
ではどうすれば「体の健康度」を上げられるのか?
私のお勧めは、角川文庫から出ている「心身自在」(アンドルー・ワイル著)という本です。この本の中に書いてある8週間プログラムをぜひ実行してみてください。
これは、いわゆる「体の健康法」について書かれた本です。
この本の著者であるアンドルー・ワイルは、2005年に『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれた人であり、彼の健康についての考え方に大切なポイントがあります。
彼の健康法は「代替療法」という考え方です。
代替療法という考え方は、病気を治すのに薬を使うのではなく、人間がもともと持っている自然治癒力を強化して病気を治す、あるいは病気にかからないように予防するという考え方です。
この考え方では、人間の体というものを心を含めた一つの全体としてみているため、この健康法で体の健康度を高めれば、同時に心の健康度も高まっていきます。
この本の中には、どんなに重度の「努力できない病」患者でも実行できるような「健康に良くない食品を捨てよう」とか「ビタミンCを飲もう」などといったアドバイスから、重度の「努力できない病」患者の場合、実行するのがむずかしい「一日10分歩こう」などといったものまで、様々なアドバイスが書かれています。
もしもあなたが、今現在、重度の努力できない病患者である場合、この本に書いてあることすべては最初からはできないと思いますので、やれる部分だけを実行して、どうしてもできない部分は飛ばしてもらって結構です。
最初はやれるところだけやってみて、だんだん元気が出てきたら、それまではできなかったこともやってみましょう。
そうやって最終的にはこの本の中に出てくる「有酸素運動」と「呼吸法」の2つに加えて、この本の中には出てきませんが、「早寝早起き(少なくとも午前7時より前に起き、午前10時よりも前の太陽光線を外に出て浴びる)」と「規則正しい生活(少なくとも起きる時間だけは必ず決めてその時間を守る)の2つ、あわせて4つを最低でも8週間実行する、というところまで持っていきましょう。(8週間というのはこれらの行動による具体的な効果を実感できるまでの最低限の時間です)
ただひとつだけ注意をして頂きたいのが、この本に出てくる呼吸法の中でも第3章で紹介される「宇宙と息を合わせる呼吸」については完全にニュートラルな呼吸法とは言えず、やや宗教的とも受け取れるような部分もありますので、この呼吸法だけは抜かしてトレーニングすることを、お勧めします。
そしてこのトレーニングを8週間続けることができたら、そこから先は呼吸法の部分を瞑想に変えていくことをお勧めします。
前半部分でもお伝えしましたが瞑想の具体的な方法についてはこちらを読んでください→「18年間瞑想を続けている私が瞑想のやり方を超具体的に書いてみました」
肉体的な健康度が上がるのにつれて、あきらかに精神的な健康度もあがっていくのを「実感的に」感じることができます。
また「有酸素運動、瞑想、早寝早起き」を実際に継続してゆけば解かることですが、実はこれらの行動には非常に強烈な快感があります。(「規則正しい生活」にも実際には快感がともなうのですが、これは有酸素運動や瞑想や早寝早起きに比べると少し解かりにくい場合もあります)
今まで「有酸素運動、瞑想、早寝早起き」を継続的に実行したことがない人にとっては、このような行動に強烈な快感があるということは少し解かりにくいでしょう。
実際これらの行動を始めたばかりの頃は、それはただただ「ツライだけ」の行動に感じてしまう人もいるかもしれません。
けれども人間の生命力を増やしてくれる行動というのは、最初の慣れないうちには多少、抵抗感があったとしても、その最初の抵抗さえ乗り越えることができれば必ず快感が伴います。
これらの「継続的な努力なしでは得ることのできない強烈な快感」は、なんの努力もなしに安易に得ることのできるような快感、例えば、飲酒、喫煙、サドマゾヒスティックなセックスなどとは比べ物にならないほどに強烈な、そしてまったく罪悪感のない、明るさとすがすがしさをともなう素晴らしい快感です。
そしてこれらの快感を少しでも実感として感じることができるようにれば、それが「不合理な行動をしなくなり、合理的な行動ができるようになれば、どれほど自分が幸福になれるのかを実感的に思い描く」ための具体的なひとつの過程となります。
合理的に考えれば当然やるべきコトだと解ってはいても、最初はたんにツライだけだったはずの有酸素運動などの行動を、それでも淡々と続けて行くうちに、どんんどん気分が明るくなり、ハツラツとし、ストレスが減り、リラックス感が増し、そのうえ思いがけない快感がある、そういった素晴らしい感覚を具体的に実感として感じられるようになると
それが別の合理的な行動ができるようになった場合も、同じように自分が今まで味わったことがないほどの、ハツラツとした明るくスッキリとした良い気分、それでいて、のんびりゆったりとした幸せな気分になれることを、現実的に予想させてくれます。
それこそが継続的な努力を続けさせてくれる原動力となるのです。
一人じゃできない人はどうするか?
けれども重度の努力できない病患者の場合、この4つの行動こそ「どうしてもできない行動」の代表的なものですので、途中で行き詰ってしまう可能性もあります。
もしもあなたが重度の努力できない病患者で、どんなに頑張っても自分一人では前記の4つの行動(有酸素運動、呼吸法、早寝早起き、規則正しい生活)を8週間続けることが難しいのであれば、どうするか?
まずはできるところからはじめましょう。有酸素運動だけでも良いですし、呼吸法だけでも、規則正しい生活だけでも、早寝早起きだけでも、とにかく8週間続けてみましょう。
「何一つ自分一人では8週間は続かない」という場合はサポートを求めましょう。
有酸素運動であれば、幸い今はライザップのように、パーソナルトレーナーについてもらうようなシステムも身近なものになりましたので、そのようなシステムを利用するのも良いでしょう。
もしも、ライザップに通うようなお金がないのであれば、中型犬以上大きさの元気がよく走るのが大好きな犬を飼うのがよいかもしれません。
犬は散歩が大好きです。早朝にのみ散歩させるような習慣をつけましょう。犬はすぐにその習慣を覚えて朝あなたに散歩を催促してくれるようになるでしょう。
一緒に走ればすばらしい有酸素運動になりますし早起きもできます。早起きが習慣になれば早寝もできるようになり、規則正しい生活もすぐそこです。
それに何よりもイキモノを飼うことは失われた生命力を取り戻すための、効果的な一つの方法でもあります。
また家族の誰かに上記の4つの中の一つでもいいので、自分がそれを続けることができるようにサポートをお願いしてみるのも良いでしょう。
家族もいなければお金もない、犬を飼えるような環境でもない、のであれば、無理にでも規則正しい生活を強制されるような施設に入るのが良いかもしれません。
いっそ自衛隊に入隊するなんていう荒療治はどうでしょう?
これでなんと「有酸素運動と早寝早起きと規則正しい生活」の3つもが同時に、強力にサポートしてもらえることになります。
しかも自衛隊の訓練隊の中にはテレビも1台しかありませんし、スマホも自由にみれませんので、時間もできますから呼吸法も実行できるかもしれません。
ただ自衛隊は非常に権威主義的な組織ですから、そこに染まらないように気を付ける必要はありますが。
実は若き日の「重度の努力できない病患者」であった私は自衛隊にて強力なサポートを頂きました。
本気でなんとかしたいならそこまでやるしかないのです。
ぜんぶを変えなきゃダメ
こうして毒となる知識を取り除き、栄養となる知識を取り入れ、瞑想、有酸素運動、規則正しい生活、早寝早起き、によって心と体の生命力を高めていきます。
ここでしっかりと理解していただきたいのが、「すべての」自分の生活の中から、毒となる知識を取り除き、栄養となる知識を取り入れなければならないという点です。
自分の生活のすべての領域において、ホンの少しづつでも依存心や支配欲を減らしていき、サドマゾヒズム的な傾向、権威主義的な傾向を減らしていこうとしなければ、
ホンの少しづつでも、破壊的な傾向や、子供のままでいたいという傾向を減らしていこうとしなければ、
目標とする「自分自身の成長や幸福のためにコツコツとした自発的で継続的な努力ができる人間」にはなれません。
それはつまり、自分のなかにある「権威士主義的な価値観」や「サドマゾヒズム的な傾向」を正当化したままで
あるいは、自分のなかにある「破壊性」を正当化したまま、それを刺激し増幅させるようなゲームをやり続けながら
あるいは、自分のなかにある「子供のままでいたい」という傾向を正当化し美化するような、本や漫画やサイトやテレビなどを見続けながら、
自分の健康のために毎日ジムにいったり、受験勉強や資格試験などのために毎日自発的にコツコツ勉強できる人になる、ということは不可能だ、ということです。
それはつまり、経済的には妻を支配し、かつ生活面ではべったり妻に依存して自分では何一つ家事ができない夫であることを、正当化し続けたままで
健康のために毎日ジムにいったり、資格試験のためにコツコツ勉強したりすることができる人になる、ということは不可能だ、ということでもあります。
これは家事をしない夫がすべて、ジムに毎日行ったり勉強したりすることが出来ないということを意味してはいません。
例え、権威主義的な傾向を強くもったままでも、その権威主義的な行動力でジムに行ったり勉強したりすることができる人がいることも事実です。
「SMが、努力できない病を悪化させるのはナゼか?論理的に説明してみた」の中の9章「自分のためには行動できない」で説明した通り、権威主義的な性格の人は、その人が「自分よりも上」でありかつ「完璧」だと信じている何らかの権威から行動エネルギーをもらえる場合があります。
それは例えば「男の沽券」かもしれませんし、あるいは「家名」かも「学歴」かもしれません。
そのような「完璧で自分より上の権威」からエネルギーをもらい、それをジムに行く、あるいは勉強をする、ための行動力として使う人もいるからです。
でもあなたが「男の沽券」とか「家名」とか「学歴」なるものがどれほど嘘と欺瞞に満ちたものかをすでに知識として知ってしまっているなら、そのような「傷もの」からエネルギーをもらうことはできないでしょう。
よって、もしもあなたが「忙しい」という正当化によって、自分の身の回りのことを妻などに全部やってもらっているような人であれば、少なくとも自分の身の回りのことはすべて自分でできるようになる、という目標を持つ必要があることを認めなければなりません。
その逆に、自活するだけの経済力がなく、誰かに経済的に依存している人であれば、まず目標とすべきは経済的な自立です。
どのような正当化をしてみても経済的な自立なくして精神的な自立はありえません。
経済的な自立といっても大金を稼ぐ必要もありません。ミニマリスト的な生活をおくることによって心の余裕は増し、経済的な必要性は減ります。
ミニマリスト的な生活や考え方は私たちの世界を大きく変えてくれる可能性を持つものの一つです。ミニマリストの可能性について詳しく知りたい方はコチラの記事→「プロブロガーのミニマリストが世界を変える、かもしれない。」を読んでみて下さい。
あるいはすでに成人していて自活できるだけの収入もあるのに親の家に住んでいるような人であればまずはそこから抜け出して独立することを目標にする必要があるでしょう。
このようにして自分の生活全体から依存心や支配欲、破壊欲、サドマゾヒズム、権威主義的な傾向を、例えホンの少しづつでも、なんとか取り除いていこうとしなければ、自分で自分を信頼できるような理性という能力を発達させることも、自分自身と他人とを愛することのできるような愛の能力を発達させることもできません。
この「自分で自分を信頼できるような理性という能力を発達させるコトや、自分自身と他人とを愛することのできるような愛の能力を発達させるコト」の重要性について詳しくは「正しい自己中の勧め」を読んでください。
そして、自分で自分を信頼できるような理性を発達させようとし、自分自身と他人を愛せる力を少しでも発達させていこうとしなければ、自分自身の人間的成長や幸福のための継続的な努力ができるようにはなりません。
自分自身の幸福や成長のためにコツコツと継続的な努力を続ける「意志」というものは、その人の性格とは別に持つことができるような抽象的な能力ではありません。
それどころか「意志」というものは、その人の性格のひとつの表現方法なのです。
もしも、自分がもつ支配欲や依存心や破壊欲、サドマゾヒズムや権威主義的な傾向、といった不合理な情熱を美化し正当化し続けるならば、
もしも、支配欲や依存心や破壊欲、サドマゾヒズムや権威主義的な傾向といった不合理な情熱に溺れることで得られる快感を手放そうとしないならば、
もしも、支配欲や依存心や破壊欲、サドマゾヒズムや権威主義的な傾向といった不合理な情熱によって弱まってしまった自分の生命力を回復させることによってのみ得られる強烈な快感を求めようとしないならば、
自分自身のためだけに、自分一人でもコツコツと毎日継続的な努力することのできるような「意志」をもつことはできません。
しかしながらそれは、自分の中の、支配欲や依存心や破壊欲、サドマゾヒズムや権威主義的な傾向といった不合理な情熱が完全になくなるまで「意志」をもつことができないという意味ではありません。
まずは最低でも自分が持っている不合理な情熱を正当化することをやめる必要があるということなのです。
たとえ現実には、まだ自分がもっている不合理な情熱をあまり減らすことができていないとしても、それ自体は問題ではありません。
自分がもつ不合理な情熱を正当化することを止め、なんとかホンの少しでも自分の中の不合理な情熱を減らすための、具体的な努力をホンの少しでも実行してゆくのであれば
その不合理な情熱がホンの少しでも減ってゆく、その一歩一歩がそのまま自分の幸福と成長のために努力することのできる「意志」の力が増えていく一歩一歩となります。
不合理な情熱がホンの少しでも減り、自分の幸福と成長のための合理的な努力が少しでもできるようになったときにハッキリと感じられるその具体的な快感こそが、「不合理な行動がなくなれば、自分がどれほど幸福になるのかを、実感的に思い描くことのできる」最初の一歩です。
そこから「不合理な行動をやめることのできる実際的な可能性がみえてくる」のです。
もちろん、「上達への道」は決して平坦ではありません。
ちょっと良くなったかなあ?と思うと、少し後戻りすることもあるでしょう。まさに「一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」といった道のりです。
この二歩下がった時が大切なタイミングです。ここですぐにヤケになって投げ出したり、落ち込んで諦めたりせずに、それでも根気強く続けていきます。
根気についてフロムはこんな言葉を残しています。
何をなしとげるにも時間が必要であるということを知らずに、やみくもに事を急ごうとすれば、けっして成功はしない。
もしも根気というものを知りたいのなら、けんめいに歩こうとしている子供をみればいい。
何度失敗しても、失敗しても、失敗しても、けっしてやめようとはせずに、だんだんと上手になって、ついには失敗せずに歩けるようになる。
おとなが自分にとって大事なことをやろうとするとき、子供の根気と集中力をもってすればどんなことでも、なしとげるのではないだろうか?
この「2歩下がった時」に、すぐにヤケになって投げ出したり、ひどく落ち込んであきらめたりしやすい人というのは、2歩下がった自分を責め続けたり、「なぜ、2歩下がったんだろう?」と、その理由や原因について色々といつまでも考え続けたりするような傾向があります。
モチロン「2歩下がった」原因がすぐ突き止められるようなモノであれば、そのような反省が有効な場合もありますが、すぐに突き止められるような理由もなく「2歩下がって」しまうような場合も非常に多いのです。
そんな時に、自分で自分を責め続けたり、「2歩下がった」原因や理由をアレコレ考え続けるのは、「根気強く続ける」ためには何の役にも立ちません。
むしろ落ち込んだ気分を増幅させ、投げやりな気分を増やし、ますます「2歩も3歩も下がらせる」役に立つだけです。
それよりも、心の栄養となる知識を取り入れたり、有酸素運動を行ったりしましょう。
ついヤケになって投げ出したり、ひどく落ち込んであきらめたりしてしまいそうな時の、金言としてフロムが良く引用するアイザック・メイヤーの言葉をご紹介します。
努力できない病を治す過程で2歩下がるのは「悪いこと」ではありませんが、つい自分を責めたり、後ろ向きな気分に捕らわれてしまいやすい人は、ぜひ参考にしてください。
自分がやってしまった悪いことについて反省したり話したりする人は、自分がしてしまった汚らしいことについて考えています。
そして人間とは自分が考えていることに捕らわれるものなのですから、汚らしいことについて考えている人は汚らしいことに捕らわれています。
ですから、この人は決して立ち直れないでしょう。
汚らしいことに捕らえられた心は、汚らしくなり、腐り、悲しい気分になるからです。
あなたは一体どうしようと言うのですか?汚いものをアレコレいじろうと汚いものは汚いもののままです。
悪いことをしたか?しなかったか?そんなことは天国の喜びと何の関係もありません。
そんなことをクヨクヨといつまでも考える代わりに、天国の喜びのための真珠を紐でつなぐことだってできたのです。
だからこそ聖書にはこう書かれているのです。
「悪から離れ、善を行え」
やってしまった悪いことについて考えるのを完全にやめなさい。そんなことをいつまでもクヨクヨ考えるのはやめて、ただ良いことをしなさい。
間違ったことをしてしまったなら、正しいことをしてバランスをとりなさい。
決断をくだすタイミングについて
こうして少しずつでも自分の中の「意志」の力が増していき「なんとかやれそうだ」という感覚がじっさいに芽生えてきたら、その時こそが、具体的な決断をくだすタイミングです。
例えばあなたが、「毎日少なくても1時間は英語の勉強をするべきだ」と頭ではわかっているのに、現実にはそれができない人だとします。
その場合、あなたは英語の勉強をしないことで自分が被る被害や損失から、目を背けようとしている部分や、その損失や被害を過小評価している部分が必ずあるはずです。
たとえば、他の面では自分よりも全然仕事ができないのに英語ができるというだけで自分の上司になっている人がいるという事実から目をそらしているのかもしれません。
あるいは英語さえできれば、あなたが望んでいる転職が可能であり、年齢的に転職のタイムリミットが近づいているという事実を「まだまだ時間はある」と過小評価しているのかもしれません。
そのような、自分が今までハッキリとは直視しようとしてこなかった現実を恐れずに真正面からみすえましょう。
①の「自分の不合理な行動によって自分が被ってきた被害や損失を真正面からみすえる」だけでは、かえって気持ちがすくんでしまい動けなくなる場合もあります。
そこで大切なのが、この②です。
英語の勉強を例とするのなら「英語ができるようになればどんなに沢山の利益があるか」というコトを考えるだけではなく
今現在のあなたが抱えているイヤな気分が間違いなく消え失せるという事実に着目して下さい。
今現在あなたは「英語の勉強をしなければ・英語の勉強をしなければ」と思いながらも、実際には英語の勉強をすることができずに、そのことでモンモンとウツウツとして、現実逃避的な行動をせざるを得なくなっていることでしょう。
その最悪な気分がなくなるだけでも、どれほど自分がスッキリとした明るい良い気分になるか、ということを、考えましょう。
その時に、良い気分の具体例として、今までに「努力できない病」を治すために実行してきた「肉体的な健康度を上げるための行動」を行ったときに感じられた、そのハツラツとした良い気分、スッキリとした明るい気分を思い出してください。
それを、「自分の目的に従って合理的に自分自身をコントロールすることができるようになれば」どれほど自分が良い気分になれるのか、ということの一つの例として、「英語の勉強がしたいという自分の目的に従って、実際に英語の勉強ができるようになれば」どれほど自分が良い気分になれるのか、というコトをより実感的に予想し思い描きましょう。
この③が一番大切なポイントです。
ここで言う「決断」とは、たとえば「毎日少なくても1時間は英語の勉強をする」ことを目標としているならば「何があろうと、最低でも3週間は、絶対に毎日必ず少なくても1時間は英語の勉強をする」と本当にお腹の底からハッキリと決める、というコトです。
これは「毎日英語の勉強ができたらいいなあ」とか「毎日英語が勉強できるようになりたい」と思う、というコトではありません。
「なにがあろうと絶対に、最低でも3週間は必ず、毎日少なくても1時間は英語の勉強をする」とホンキでお腹の底から自分自身に誓うのです。(3週間というのは一つの行動が習慣化する最低限の期間です)
実は、本当の本気で、自分に対して誓いをたてるということは非常に恐ろしいことです。
自分自身の目から逃れてこっそりとサボることはできないからです。
でも、その恐怖を一瞬の勇気の力で乗り越えて、本当のホンキで自分自身に対してお腹のソコからの約束をすることができれば、その時に行動は劇的にそして決定的に変わります。
今まで長く「努力できない病」を患って来た方であれば、自分自身に対する信頼心もかなり下がっていますので、本当の決断をくだすためには、大きな勇気が必要になってきます。
もしもどうしても怖くて決断ができないという方は、こちら→「最後のアドバイス」を読んで決断の仕方について学んで下さい。
これはスモーカーが「タバコをやめる」という決断を下すときのためのアドバイスですが全ての決断に応用することができます。
今回はサドマゾヒスティックな傾向および権威主義的傾向の克服という点を中心に「努力できない病」を治す方法についてご紹介しましたが、私たちが努力できない病を克服するためには、このサドマゾヒスティックな傾向および権威主義的傾向と深い関係のある、さらに3つの性格傾向(「子供のままでいたい」という性格傾向、「破壊性」を中心とした性格傾向、「本当の自分を失ってしまう」性格傾向)にも注意を払う必要があります。
これら3つの性格傾向もまた、現代社会では良いものとして肯定されたり、あまりにも一般的すぎて問題だと思われることもなかったりするようなモノですが、実は注意をはらうべき性格傾向なのです。
破壊性を中心とした性格傾向は「努力せずにはいられない病」として現れることも多く、これについて詳しくは「「努力できない病」と「努力しないではいられない病」は、同じです。」で書いています。
また自分では自分の依存性にハッキリと気づかない場合も多い「子供のままでいたい」という性格傾向については、「生かされている、という考え方にひそむ危険性」の中で書いています。
そして、普通の人だと認められるために「本当の自分を失ってしまう性格傾向」については「普通の人」になるためには「自分」をやめる必要があります。」の中で書いています。
努力できない病を本当に克服するためにはこれらの性格傾向についてもぜひ知って頂く必要がありますので、読んでみて下さい。
なお、この記事の中のほとんどの部分はエーリッヒフロムの著書「精神分析と宗教」「自由からの逃走」および「人間における自由」の論旨に従って、その抜粋を中心に書いていますので、もしも、この文章を読んで興味を持たれた方は、ぜひフロムの著作を読んでみてください。
翻訳が古いこともあり、明らかに誤訳もあるため、かえって翻訳本のほうが解かりにくい点もありますので、翻訳本と原書との併読を強くお勧めいたします。