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禁煙セラピストのブログ

ベーシックインカムは革命です。

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この記事では「ベーシックインカムこそが、現代の革命だ!」という理由を、エーリッヒ・フロムの理論に従って解説してみたいと思います。

今回は、フロムの著作の中でも、主に「正気の社会」および「希望の革命」「反抗と自由」からの抜粋を中心に、より解かりやすく述べていきたいと思います。

まずはこのブログのメインテーマである「努力できない病」とベーシックインカムの関係から考えてみたいと思います。

ここで言う「努力できない病」とは、ただ単に努力ができない、という状態を指すのではありません。

会社のため、学校のため、親のため、子供のため等々、自分以外の誰かのためなら努力できるのに、ただ自分一人のためだけの努力となると、イキナリそれができなくなる状態のことを指しています。

「自分自身のために、毎日運動しなければならないのは十分良くわかっているのに、運動できない。」

「自分自身のために、毎日勉強しなければならないのは十分良くわかっているのに、勉強できない。」

「自分自身のために禁煙しなければならいのは十分良くわかっているのに、禁煙できない」

こういった「ただ自分自身のためにだけするべき努力となると、どんなにそれが自分にとって大切なことか十分理解しているのにできなくなってしまう」のはなぜでしょうか?

その理由の一つに、「自発性の麻痺」があります

ではなぜ自発性が麻痺しているのでしょう?

一般的には、このような自発性の麻痺は「人間の弱さ」と説明されます。

「人間という生き物は元々弱くナマケモノなんだから、ただ自分のためだけに自分一人でする努力なんてできるはずがない」「自分のためだけに自分一人で努力できるような自発性なんてあるわけない」そんな風に語られがちです。

けれども本当は、このような「人間の弱さ・自発性の麻痺」とは、本来の人間の性質ではありません。

それはある歪んだ状況に人間が置かれてしまった時だけに、発達する性質なのです。

病気や疲労などによって健康が害されたり、なんらかの理由でエネルギーが枯渇したりしていない状態の人間は、誰もが本来、自発性を持っています

むしろ、自然な人間の性質としては、「何もしないでいる」のを非常に嫌います。

一つの簡単な実験をしてみれば、これが真実だということが誰にでもすぐにわかります。

眠くもなく疲れてもいない時に、目を閉じるか、あるいは何もない真っ白な壁にむかってラクな姿勢ですわり、何も食べず飲まず読まず見ず聞かず話さず考えず眠らず、とにかく「何もしない」という状態をホンの5分でも保てるかどうか試してみて下さい。

それがどれほど苦痛なことかすぐにわかると思います。

しかしながら、あらゆる自発性は強制によって麻痺します。

「〇〇をしたい」と思う自発的な意欲は、その「〇〇」の部分が強制されると萎えていきます。

例えば、ココに絵本が大好きで自発的に絵本を読みたがる子供がいたとします。

ほぼ毎日絵本を読みたがり熱心に読むのですが、ごくたまに絵本を読まない日もあります。

親としてはこの子にもっと多くの絵本を読んでもらいたくて、「絵本を読む」という行動をさらに促進しようという意図で「絵本を読んだ日にはおやつをあげるが、絵本を読まない日はおやつをあげない。」というルールを作ります。

すると親の意図とは反対に、この子は段々と絵本を読まなくなり、ついにはおやつをあげないと絵本を読まない子供になってしまうのです。

このように自発性というものが、強制によって麻痺する性質がある以上「働かざる者食うべからず」というルールによって働くことを強制する社会では、当然「働きたい」という自発性は麻痺していきます。

誰が一番働くように強制されているか?

現在の資本主義社会において、実際にこの「働かざる者食うべからず」というルールによって、もっとも「働くことを強制されている」人々とは、いわゆるロウアーなレベルにいる人々です。

普通に考えれば受け入れならないような劣悪な労働条件(いわゆる3K的労働条件)を「餓死の恐怖」という命をたてにした残酷卑劣な強迫によって、無理やり受け入れさせられている人々ほど「働かざるもの食うべからず」というルールをシビアに感じる人々はいないでしょう。

現実には、現在の日本社会において、いわゆる「働いている人」の割合は4割だけであり、あとの6割の人々は「働かないで食べている」わけですから、この6割の人々は実際には「働かざる者食うべからず」というルールの外側で生きています。

さらに言うなら「働かざる者食うべからず」というルールによって、最も利益を得ていて、そのルールを最も維持したいと望んでいる人々(労働者の「働き」から搾取する能力をもつ支配階級の人々)は、最初からこのルールの外側で生きています。

支配階級にいる人々は人生の最初から、働こうと働くまいと間違いなく子孫代々まで「食べられる」ことが保障されているのです。

けれども、3K労働を受け入れざるを得ないほどの貧しい環境に生きる人々にとっては、この「働かざる者食うべからず」というルールは、どんなに重い鉄の鎖よりも、恐ろしいムチをもった奴隷監督よりも、強烈な強制力をもっています。

なぜなら、そのルールに従わなければ、それはそのまま「死」を意味しているのですから。

これほど激烈な強制のもとに生きる人々とは、現代版の奴隷に他なりません。

彼らにとって自由なんてまったくの絵空事です。

自由のないところでは自発性は育ちません。

ある一つの社会の中に存在する一つの社会社会集団に属する人々にとって、自由がまったく絵空事であるような社会では、その社会全体の自由度も極端に下がります。

ですから、そのような社会全体においての自発性も当然のことながら下がってしまいます。

よってベーシックインカムが導入されれば、社会全体の自由と自発性が飛躍的に増大するのは間違いのないことでしょう。

さらに労働条件や、富の分配率も変わる可能性があります。

餓死という恐怖のために、どれほど劣悪な労働条件でも働かなければならないような人が社会からいなくなれば、ほとんどすべての労働が、十分に魅力的になり、興味のあるものになる必要性がでてきます。

これは現在の労働条件を飛躍的に改善するでしょう。

また、どうしても魅力的にできない仕事であれば、かなりの高額な賃金を設定する必要が出てきます。

社会にとっては必要であっても、誰もが嫌がるような仕事をやってくれる人達には、本来高い賃金を払う必要があるはずなのです。

これは富の分配率を変える可能性を持ちます。

2019年3月現在、アメリカにおいては最低時給15ドル(日本円にして約1600円)が実現されつつあります。

既にヨーロッパの最低賃金は、このあたりのレベルを達成していますが、今までは日本の最低時給と、ほぼ変わらなかったアメリカにおいて、最低賃金のこのような劇的な引き上げは、富の分配率を変えるとまではいきませんが、それでも大きな変化です。

ベーシックインカムは不幸を減らす

また、ベーシックインカムは労働条件や富の分配率を変えるだけではありません。

職場や学校、家庭において必ず問題になってくる「人間関係」すらベーシックインカムは変える可能性をもっています。

ベーシックインカムによって人間関係のなかの自由は飛躍的に増大します。

そうなれば、日常生活での人間の不幸は大幅に減る可能性があります。

現代版の奴隷状態にいる人々が、どのような不幸と直面しているのかを一つの例として考えてみましょう。

奴隷状態にいる人々の精神状態が、どれほど荒廃するかは火をみるよりも明らかです。

この人達は、例えホンの1.2ヶ月でも失業すれば、すぐに家賃が払えなくなったり、明日の食事にも困るほど経済的に困窮しています。

このような貧困が作り出す心理的な荒廃はきわめて深刻です。

こういった人達にとってクビになることは即、明日からの生活が行き詰ること、ひいては「死」を意味しています。

つまりこの人たちにとって、上司という人間は、極端にいうなら自分の殺傷権をにぎる人間のように思えるのであり、当然ながら彼らに対して非常に恐れを抱いています。

ですから、この人達は、どんな理不尽なことを上司から言われても言い返すことはおろか目を合わすことすらできません。

もしも上司の気に入らないようなことを言ったりしたりすればクビになるかもしれない(ひいては死ぬかもしれない)という恐怖がいつもあるので、上司に気に入られるように、こびへつらわざるを得ません。

また、こびへつらうにもある程度のコミュニケーション技術がいりますので、そのようなコミュニケーション技術を持たない人は、少なくとも嫌われたり目をつけられたりしないように、目立たぬよう気に障らぬように、ビクビクおどおど暮らさなければなりません。

さらに、このように自分より上の人間にこびへつらわざるを得ない人々、あるいはビクビクおどおど暮らさなければならない人々は、その同じ苦痛を自分より下の人間に与えることによりうっぷんを晴らそうとしてしまう場合もあります。

こうして貧困家庭における幼児虐待や老人の虐待は増大し、理不尽なブラック企業がまかり通るようになります。

あるいは暴力的な夫によるドメスティックバイオレンスの被害を受けながらも、何らかのまともな仕事につくための訓練に必要な期間さえ自活する能力がないために、その夫と暮らさなければならない不幸な妻も、また同じように「餓死の恐怖」という脅迫によって奴隷にされている人間の一人です。

ベーシックインカムによってこのような「餓死の恐怖による強制」がなくなれば、奴隷状態のまま暮らさなければならない人々の割合は飛躍的に減るでしょう。

そのとき、どれほど多くの不幸が取り除かれることでしょう。

こうして社会の底辺部分の闇に暮らす人々の不幸が取り除かれ、社会の底辺部における幸福と自由が飛躍的に増大すれば、その社会全体の闇が減り、幸福と自由も飛躍的に増大します。

現在、および過去の人間の歴史の大部分を支配してきた原理は「働かざる者、食うべからず」でした。

長い間人間は、この”脅し”によって、権力者から要求されるとおりに行動するだけではなく、要求される以外の行動をする気さえおこさないように考え感じることを強制されてきました。

人間を飢えの恐怖から解放することによって、スローガンではなく現実としての自由を確立し「すべての人間に生きる権利がある」という原理を、現実に確立することができます。

ほんらい、我が国の法律では「誰もが」人間としての最低限の品位ある生活を保障されているはずなのです。

「誰もが」である以上、本当ならば、病気や老いや失業といった自分ではどうしようもない理由で仕事をやめた人ばかりではなく、絵が書きたいから、あるいは歌が歌いたいからという理由で、あるいは特別に理由がなく仕事をやめた人にも、同じ生活が保障されてしかるべきなのは言うまでもありません。

「生きる権利」そのもの、食べ物、住居、医療、教育などを得る権利は、人間固有の権利であって、いかなる条件によっても、社会の役にたつ人間であろうとなかろうと保障されなければなりません。

ベーシックインカムは人間を進化させる

餓死という脅かしがつきまとうような貧困な生活から、そのような脅迫のない自由で豊かな生活へと変化することは人間の心理状態に大きな変化を与えます。

これこそが、人間の精神の発達のもっとも重要な段階の一つです。

強制と欠乏という貧困な雰囲気の生活における心理状態は、不安と羨望と自己中心主義を主体としたものになります。

このような社会において「努力できない病」は蔓延しがちであり、多くの人が、「その行動は不合理で自分にとって不利益になる」ということを頭ではわかっていながらも、どうしても不合理な行動をしてしまいがちです。

自由と豊かさという雰囲気の生活における心理状態は、自発的な創意工夫と、人生への信頼と、自発的な愛という人間同士の連帯感を主体としたものになります。

この時、特別に精神的に病んだ人以外は、社会における「努力できない病」は克服されるでしょう。

こうして多くの人が、理性的で合理的な行動ができるようになれば、社会は大きく変わります。

また、ベーシックインカムが導入されれば底辺の労働条件だけではなく、すべての労働時間も大幅に短縮され、自由な時間が大幅に増える可能性もあるでしょう。

そのとき考えられることは、「人生という課題」が現実的でさけられない問題となることです。

これまで多くの人は仕事に追われて、あるいは仕事が終われば疲れ果てて

「私は、なんのために生きているのか?」とか

「私の人生で本当に大切なものは何か?」とか

「私とは何者なのか?」などという問題を、真剣に考えることはできませんでした。

仕事にばかり追われることがなくなれば、このような問題に真剣にとりくむ自由も生まれます。

本来、こういった問題は、人間誰もが真剣に取り組む必要のある課題なのです。

もしも膨大な自由時間を持ちながらも、このような問題を真剣に考えることを避けづづければ、退屈という怪物によってメンタルヘルス上の問題を抱えざるを得なくなります。

もちろん現代には退屈を紛らわすための逃避的な行動がたくさんありますが、あまりにも極端に逃避的な行動ばかりを続けると、やはりメンタルヘルス上の問題がおこってきますので、精神衛生上の理由からも、多くの人が、これらの「人生の問題」を真剣に考えるようになるでしょう。

そして誰もが、これらの人生の問題に正面からとりくむときに

「私にとって人生で一番大切なものは何か?」という質問の答えは何なのでしょうか?

私たちは、新たに得た自由な時間をどのように使えば、自分の人生で一番大切なものを手に入れることができるのでしょうか?

私たちが、自分の人生のすべての自由時間をつかい、自由におこなう努力の焦点とすべき、最も意味と価値のあるものは何でしょうか?

人間の経済的な問題が基本的に解決されたとき、人間が幸福になるためにはどうすれば良いのか?

この人類の長年の大いなる疑問に対して、ヒューマニズムの長い歴史の中で培われてきた答えとは何でしょうか?

キリスト教、仏教、道教、イスラム教などの宗教だけではなく、古代ギリシャ哲学等のヒューマニズム的な思想が出したてきた答えの中から、これらの教説や哲学の限界やこじつけを、そのような思想や宗教が表れた特殊な、歴史的社会的、経済的、文化的状態の結果だと理解するなら

すべてのヒューマニズムの宗教家や思想家の目的は人間が潜在的にもつ能力をより成長発展させ、それによって人間自身をより幸福にすることである、という驚くべき一致を見いだすことができます。

そして人間がもつ潜在的な能力の中でも、最も人間的な能力は何かといえば、それは「創造的(自発的)に人を愛する能力」です。

ただし、ここで言う「愛」とは、普通一般に言うところの「愛」とは全く違うものです。

それは、キリスト教においては、イエスが説くところの「最も尊い行い」と言われるような種類の愛です。

仏教においては慈悲と言われるような種類の愛です。

道教においてはタオと言われるような種類の愛です。

ギリシャ哲学では、賢人ソクラテスが、自分の死をもってギリシャ市民へと体現したような種類の愛です。

それは情欲や執着やナルシズムを伴わない愛です。

それは、透徹した客観性と、人間の限界を受け入れることのできる謙虚さを伴なった理性がなければ成立しない愛です。

それは、経済的かつ精神的な独立と、徹底した自由がなければ成立しない愛です。

それは自発的で積極的な、精神的そして肉体的な活動としての愛です。

それは愛する人に対する無意識のレベルにまで達するような深い理解と、その理解に伴う心からの配慮と、愛する人のもつ人間的な可能性を心から肯定する尊敬と、またその愛する人の人間的可能性を、できる限り発達させるためのあらゆる手助けを引き受ける覚悟としての責任を伴う愛です。

そしてその愛は一人の人間だけにとどまるものではなく、すべての隣人へと広がる愛です。

このような「愛する能力」を実現することは決してたやすいことではありません。

むしろ、とてつもなく難しいことでしょう。

けれども、私たち人間は皆、このような「愛する能力」の萌芽を自分の中に持っています。

また、このような「愛する能力」を発達させていくための努力は、経済的な成功を得ようとするための努力や、名声を獲得しようとするための努力のように、運に左右されるものでもなけば、成功か失敗か二つに一つといったものでもありません。

例えホンの少しでも「愛する能力」を発達させることができれば、その分だけ、明らかに人生の幸福度が増していく、そのような努力なのです。

たとえ「完璧」には愛する能力を発達させきることができなくても

キリストのようには、あるいは仏陀のようには、ソクラテスのようには、人を愛することができなくても

それは決して失敗ではありません。

例え、ホンの少しでも自分が持つ「愛する能力」を発達させることができれば、その能力が増大していく一歩一歩においておいて、自分の生活の中に、明るさと穏やかさと精神的な透明感と落ち着きと自信と喜びと幸福感がましてゆき、自分の努力の方向性が間違っていないことを確信していくことのできる道のりなのです。

もしも、すべての人が飢えの恐怖によって操られることがなくなれば、ヒューマニズムの長い歴史の中で培われたきたこの英知

「誰もが可能性としては持っている創造的に愛する能力を発達させることこそが人間にとって最も価値がある活動である≒人間が幸福になる方法である」という英知を、多くの人が受け入れることができる日がくるかもしれません。

こうして創造的(自発的)に人を愛する能力を持つ人間が劇的に増えるとき、どれほど政治的、社会的、経済的状況は変わるでしょう?

フロムが、その著書「正気の社会」においてベーシックインカムというアイデアを提出した当時の社会は、ベーシックインカムという考え方を、まったく現実的ではなく空想的なアイデアでしかない、と受け止めていました。

けれども、2017年、多くの国でベーシックインカムの社会的な実験が行われ、近年中にはその結論が出るはずです。

私たちは今、本当に大きな変革の時を生きているのかもしれません。

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