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生かされてる、という考え方は危険かもしれない。

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「人は生きているのではなく生かされているのだ」というような話、時々、聞きますよね。

この手の話は、基本的には「いい話」として語られます。

でも実は、この「生きているのではなく、生かされている」という考え方にはモノスゴク大きな危険がひそんでいる可能性があります。

「生きているのではなく、生かされている」といった考え方は、人を「努力できない病」にしてしまう場合があるのです。

ではどのような時に、「生きているのではなく、生かされている」という考え方が「努力できない病」を作り出してしまうのか?

その社会心理学的なメカニズムを、エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」「人間における自由」および「悪について」からの抜粋を中心に、その論旨にしたがって解説してみたいと思います。

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生かされている、は罠かもしれない

「人は生きているのではなく生かされている」といった考え方をする人の中には、心のなかに依存心がありながら、自分ではその依存心にまるで気がついていない人たちがいます。

そしてこのような、自分では意識することのできない依存心もまた「努力できない病」を作りだしていきます。

こういった依存心は、あまり強いものではなく「穏やかな依存心」と言える程度のものです。

この「穏やかな依存心」を持つ人はとても多く、現代日本においては、この程度の依存傾向すらない人は、むしろ少数派なくらいです。

この種の依存心は、あるグループが他のグループを利用し支配する権利が確立されているような社会において良く見られます。

現代日本社会も、その一つである「家父長制社会」は、その典型例です。

利用され支配されるグループに所属する人たちは、その力関係を変えるほどの実際的な力も持ちませんし、力関係を変えるための具体的なアイデアも持ちません。

そのために、自分達を利用し支配するグループの人たちを、逆に自分達に恩恵を与えてくれる人たちとして尊敬し依存します。

利用され支配される立場にいる人、つまりは奴隷的な立場にいる人は、受け取るものがどれほど少なくても、「自分だけの力ではさらに少ししか得ることはできない」と考えがちです。

この奴隷的な立場にいる人が生きる社会の構造自体が、「この社会を自分たちだけの力で組織しなおし、自分たちの力だけで生きぬくことは不可能だ」という印象を、この人に与えるからです。

この種の依存形式を持つ人は、サドマゾヒズム的性格=権威主義的性格(←これについて詳しくは「SMが「努力できない病」をこじらせるのはナゼか?論理的に説明してみた。」を読んでください)の人が持つような危険なまでの情熱的性質は、もっていません。

この「穏やかな依存心」を持つ人々が持っている基本的な欲求は「子供のままでいて自分を守ってくれる誰かから離れずにいたい」というものです。

この「子どものままでいたいという依存心」を断ち切るためには、心理的な意味でのヘソの緒を断ち切る必要があるのですが、これがなかなか難しいのです。

この人たちは、「血のつながりなどの原始的な絆によって、自分は母的なもの、あるいは家族的なものと結びついている」と信じていられる間は、「自分は守られていて安全だ」と感じることができます。

こういう種類の人は、心理的にはまだ子供であり、自分ではなく自分以外の誰かが、自分にたいする責任を負っています。

このような人は、自分の行動と判断すべてに自分自身で責任を持つ、という不安な体験を避けようとします。

子供のままでいれば、自分の人生を自分一人だけで背負う、という独立した大人にはつきものの根本的な不安を避けることができます。

また、かつて子供として楽しんだ保護や、暖かさや、疑う余地のない帰属感などに満足を感じ続けることもできます。

けれども、その代わりに支払わなければならない代償は高価です。

この人たちは「本当の自分」になることができません。

この人たちは、精神的に成長し成熟した大人として独立することができません。

ですから、親や家族といった自分の周りの人の期待とは別の、自分本来の個性を自分自身で育て上げることができません。

よって、親や周りの人の期待とは違う「本当の自分自身」というものを、自分自身の力で作りあげていくことができないのです。

この人たちは、親や家族と言った自分の周りの人達を、客観的に判断するためのツールとなる理性や客観性を発達させることも出来ません。

理性や客観性を発達させなければ、独立した自由な人間として生きることはできません。

この人たちは、つねに何かに、あるいは誰かに頼らずにはいられませんので、基本的に不安感を抱えています。

そして、家族の絆などの自分がもっとも頼りにしている血縁的な絆が危険に直面したときは、いつでも極度な不安感を感じます。

また、この人たちの精神的、感情的活動のすべては、この人たちが所属する家族的な集団の権威と結びついています。

ですから、この人たちが信じていることも、知っていることも、本当は自分自身の頭で考え納得したものではなく、その人たちが信じる権威から与えられたものです。

よって、この人たち自身は、本当は自分個人の意見というものもなければ、自分個人の信念もないのです。

この人たちは情愛は感じることができますが、それは動物としての情愛です。

暖かく安定してはいますが、自由と独立を基礎とする人間としての愛ではありません。

もしもその「愛」に自由と独立が含まれていないなら、当然その「愛」は、束縛や支配、依存や嫉妬といった要素が入らざるを得ません。

この人たちは、良く知っている人、もしくは自分とどこか似た感じをもつ人にだけ好意を感じ、そのような人たちだけを「本当の人間」と感じます。

この人たちは、全然知らない人、明らかに自分とは違う感じの人にたいしては「住む世界が違う人」と感じ、自分とまったく同じ人間とは本音の部分では感じられません。

その結果、自分自身の中にも「本当の人間」とは思えない部分が出来てしまいます。

なぜなら、この人たちにとっては、自分の身近にいる誰もが「この人はこのような性質をもつはずだ」と期待している性質だけが「本当の人間」の性質であり、それ以外の性質は「本当の人間」の性質とは考えられないからです。

ですから、もしも自分の中に、自分の身近にいる誰もが間違いなく認めてくれると確信できない考え方や感覚が少しでもあると、「自分は異常ではないか?」「こんなことを考えるのは自分だけではないか?」と不安を抱いてしまうのです。

このような性格傾向をもつ人の感情や考え方は、それが良いか悪いか、あるいは偽物か本物か、で判断されるのではなく、なじみがあるか無いか、で判断されます。

こういった性格の人々は、自分の全人生をなんとなく「自分の外側の力」に関係させており、この人たちのすること、感じること、考えることで、この「力」と結びつかないものはありません。

この人たちはその「力」に、保護され世話を受けたいと願い、自分の行動によって起きたことでもすべてこの「力」に責任を負わせます。

この人たちは自分が依存しているという事実を、全然意識していないこともよくあります。

たとえ、このような依存をぼんやりと意識しているとしても、この人たちが依存している人間や力は、あいまいなままになっていることが多いのです。

この力には、はっきりとしたイメージはありません。

その「力」とは、「その人を守り、助け、成長させ、一緒にいてくれ、決してその人を一人ぼっちにさせない」力です。

このような性質をもつ力「X」を、「魔法のヘルパーさん」と呼ぶこともできるでしょう。

もしも人間が、「生きているのではなく」ナニモノかによって「生かされている」のだとすれば、このハッキリとした実態のない人間を「生かしている力」こそ、まさに典型的な「魔法のヘルパーさん」です。

確かに、人間以外のすべての生物は、自然の力によって「生かされている」というのが正しいでしょう。

でも人間だけは、自分の人生を自分自身で「生きていく」必要があります。

なぜなら、自然によって「生かされていた」状態、何も積極的な努力をしなくても自然と調和を保つことのできた人間以前の動物の状態に、もどることはできないからです。

人間だけが、なぜ自分は生きているのか?という疑問を感じることができる動物です。

人間はこの問題を解かなければならず、そこから逃げ出すことはできません。

恋愛体質も、罠かもしれない

この「魔法のヘルパーさん」は人格化されていることもよくあります。

それは、神や、自然法則などとして考えられることもあれば、親、妻、夫、先生、恋人、のように現実の人間として考えられることもあります。

ここで注目すべきは、現実の人間が「魔法のヘルパーさん」的な役割をもつ人だと思われた途端に、その人に魔法の性質が与えられ、急にその人が強い重要性を持つようになる、という点です。

ある人を「魔法のヘルパーさん」だと思い込むのは、いわゆる「恋に落ちた」場合に起こりやすい現象です。

ある人を「魔法のヘルパーさん」だと思い込んだ人は、この「魔法のヘルパーさん」と関係を結ぼうとします。

そして「魔法のヘルパーさん」的性質の持ち主だと思い込んだ人に、自分の全生活を結びつけ、その人に依存しようとします。

その相手も同じように行動をしている場合もありますが、それはただこの関係が「本当の恋」だという印象を作るだけです。

この「魔法のヘルパーさん」を求める欲求は、精神分析的操作によって、実験に似た条件のもとで作りだすこともできます。

精神分析を受けるクライアントは、精神分析士に深い愛着を感じ、自分の全生活、行動、考え方、感情を、精神分析士に結びつけることがよくあります。

クライアントは意識的に、あるいは無意識的に自問自答します。

「先生は、このことを喜ぶかな?喜ばないかな?認めてくれるかな?怒られるかな?」と。

実際の恋愛関係であれば、その人が素晴らしい人だったからこそ、自分は、その人を選び愛したのだ、という言い訳ができます。

ところが精神分析的状況では、そのような正当化はできません。

まったく異なった種類のクライアントが、まったく異なった種類の精神分析士に対して同じ感情を抱くようになるからです。

この関係は愛情に似ていて性的な欲望をともなうことさえも多いのです。

それは本質的に「人間のカタチになった魔法のヘルパーさん」に対する関係です。

ここでの精神分析士の役割は、「権威をもつ人々」(親とか医者とか先生とか)と同じように、「魔法のヘルパーさん」をもとめる人を満足させる、というものです。

感謝してばかり、も罠かもしれない。

人が「魔法のヘルパーさん」に執着してしまう理由は二つあります。

一つめは「一人でいる能力がないから」であり、二つ目は「自分が可能性として持っている潜在的な能力を実現する力がないから」です。

この二つの無能力感から目を背けるために、サドマゾヒズム的な性格の人は、「魔法のヘルパー」さんに依存し、自分自身から逃げ出そうとします。

今ここで問題にしている、よりおだやかな依存の形における無能力感は、ただ「保護され指導されたい」という願望になるだけです。

この「穏やかな依存」的性格の人たちは、特別な種類の忠誠心を抱きます。

それは、保護してくれ指導してくれる人に対する感謝であり、その人を失うことに対する絶え間ない不安です。

この人達が、安定感を感じるためには多くの保護と指導が必要なため、この人たちは多くの人々に対して忠誠をつくさなければなりません。

この人たちは「ノー」と言うことを避けたがりますので、何に対しても誰に対しても「イエス」と答えることを好みます。

その結果、批判的に考える能力が麻痺し、ますます他人に頼らなければならなくなります。

この人たちは基本的に誰にでも頼り、あらゆる種類の支えを受けます。

この人たちは「誰かの支えなしでは何もできない」と信じているため、一人きりになるとダメになったと感じます。

この無力感は、「一人でなければできない行為」、決断をしたり責任を取ったりといった行為をしようとするときに、特に問題になってきます。

例えば、問題の多い恋人と別れるかどうかを決断しなければならない時、この人たちは、その問題となっている当の恋人に助言を求めたりします。

このタイプの人たちは飲んだり食べたりすることを好みます。

こういった人々は食事か飲酒によって不安を克服しようとします。

口は特に目立っていて、とても表情にとんでいます。

唇は食べさせてもらうことをたえず期待しているかのようにいつも半開きになっていがちです。

夢の中ではしばしば食べさせてもらうことが愛されることの象徴であり、飢えは欲求不満、あるいは失望の表現です。

たいていの場合、この種類の性格の人達は親しみやすく、人生観は楽天的です。

この人たちは、人生とその贈り物にある程度の自信を抱いていますが、その「補給源」がおびやかされる時には不安と狂乱に陥ってしまいます。

この人たちは純粋な暖かさと人を助けたいという願望を持つことが多いのですが、そうやって人に好意をもたれそうなことをやりながら、同時に人から好かれることを期待してもいます。

「手のひらの上でうまくあやつる」は最悪な罠

人が、「人間のカタチになった魔法のヘルパーさん」と自分とを関係させようと望む強さは、その人が可能性として持っている自分の知的、感情的、感覚的な能力を自発的に表現できる力と反比例します。

自分の能力を、ほとんど自発的に表現できない人は、自分の行動によってではなく、「人間のカタチになった魔法のヘルパーさん」によって、自分が手に入れたいすべてのものを獲得しようと望みます。

この度合いが強まるほど、人生の中心点は、自分自身から「人間のカタチになった魔法のヘルパーさん」へと移っていきます。

こうなってしまうと、問題はもはや自分自身の人生を生きることではありません。

問題は、自分を失わないために「その人」をどのようにあやつるか?自分の望むことをどのようにしてその人にやらせ、どのようにして自分に責任のあることを、その人の責任とするか?ということになります。

極端な場合、人生をただ「その人」を操るだけで過ごすこともあります。

このような人が用いる方法は様々です。ある人は「服従」を、ある人は「善良さ」を、ある人は「苦悩」を操縦のための主な方法とします。

そこではどのような感覚も考え方も感情も、「その人」をあやつろうとする欲求によって色づけされています。言いかえれば、そこには本当に自発的で自由な精神的活動はありません。

自発性をさまたげる原因でもあり、また自発性を失ってしまった結果でもある、このような依存性は、依存しているその当人に「自分は弱い」という感覚や、束縛されている感覚を与えます。

このため、「人間のカタチになった魔法のヘルパーさん」に依存している人は、同時に無意識的にではあっても、その人によって自分は奴隷にされているとも感じ、多かれ少なかれその人に反抗します。

自分の安全と幸福を託している人間に対する反抗は、新しい矛盾をひきおこします。

この新しい矛盾は、その人を失うまいとすれば、押さえつけなくてはなりません。けれども底にひそむ敵対感はこの関係の中でもとめようとしている安全感をたえず脅かします。

もしもある現実の人間が「魔法のヘルパーさん」の役割を与えられた場合、その人に対する期待がはずれたとき、かならず失望がともないます。

もともとその期待が現実的ではないので、どんな現実の人間も必ず失望感を与えます。

その上、この失望感にはその人間の奴隷になっていたという反感も加わりますので、その人とのあいだに絶えまない衝突がおこります。

この衝突は、ただその人と別れるという結末で終わることもありますが、たいていの場合、その人に掛けていたあらゆる希望の実現を期待できるような別の人を探します。

そしてその関係も失敗であることがわかると再びその関係を解消します。あるいは、その人は「人生なんてこんなもの」とあきらめます。

この人が理解していないのは、自分の失敗は決して「正しい魔法のヘルパーさん」を選ばなかったからではない、ということです。

それは自発的行動によってのみ達成できることを「魔法のヘルパーさん」の力を借りて獲得しようとした結果なのです。

以上のように考えると、夫婦や恋人間の関係として「女性が男性をてのひらのうえでうまくあやつる関係が理想的な関係だ」といった考え方に、どれほど大きな問題があるかがわかります。

「努力できない病」を克服したいのであれば、このような男女の関係性は理想どころか最悪な関係性です。

フロイトのエディプスコンプレックス

フロイトは、このような「自分以外の誰かに生涯を通じて依存しようとする現象」を、研究しました。

この現象は彼に強い印象を与えたため、彼はこの現象に「エディプスコンプレックス」という名前を与え、あらゆるメンタルヘルス上の問題の中心と考えるようになりました。

フロイトは、この「エディプスコンプレックス」こそが、彼の科学体系の基本の一つとなる、と信じていました。

そしてフロムは、このエディプスコンプレックスという「生涯を通じて母的なものへ依存しようとする執着」に関するフロイトの発見は、人間の科学の中でも、その影響がもっとも大きいものの一つである、と述べています。

しかしながら、フロムは「その発見の核心を理解するためには、フロイトの発見をリビドー理論から解放しなければならない」とも言います。

フロイトが実際に観察したのは、「幼児期の人間の母親にたいする執着には、巨大なエネルギーがある」ということです。

この「母に対する強い執着」というのは、普通は大人になっても完全には克服されることが滅多にないような非常に強い愛着です。

この母親に対する非常に強い愛着のせいで、恋愛関係における男性能力が失われたり、大人としての独立性が弱まったりすることがあります。

人が意識的にもつ目標と、無意識の奥へと押し込められた母への強烈な愛着との間の葛藤が、様々なメンタルヘルス上の問題や、人生の問題となって現れる、という事実をフロイトは発見しました。

フロイトは、この「母親に対する強烈な愛着」の背後に存在する力は、性的リビドーの力だと信じました。

フロイトは「性的リビドーという力が、幼児の母親に対する性的な欲求を作り出し、父親を性的なライバルとして憎む感情を作り出す」と仮定しました。

そして「けれども、ライバルである父親の力が自分よりも圧倒的に強いため、幼児は自分の近親相姦的欲求を抑えつけ、逆に自分を父親と同一視することによって「自分」というものを作り上げていくが、無意識の中に抑えつけられた近親相姦的な欲望は長く尾をひいて残る」と仮定したのです。

母に対する強烈な愛着

しかしフロムは「男児であっても女児であっても、幼児の母親にたいする強烈な愛着は、男児の母親へのエディプス的愛着とは質的に異なり、男児の母親に対する性的欲望よりも、はるかに重要な現象である」と述べています。

フロムは、男女の幼児の母親への強烈な愛着が、人間の成長過程の中心的な現象の一つであり、メンタルヘルス上の問題の主な原因の一つだと言います。

この男女ともに持つ「近親相姦的」衝動は、人間の最も基本的な情熱の一つです。

「近親相姦的衝動」の中には、保護を求める気持ち、ナルシズムの充足、責任や自由や大人としての意識に伴う負担から逃れようとする渇望、無条件の愛を求める気持ち、などが含まれています。

幼児は無力で自分の力だけでは生きることができず、自分では満たすことのできない世話と愛情を必要としています。

この役割を果たすのが母親や母親代わりの人です。

けれども無力で確実性を求めるのは単に幼児だけではありません。

大人であっても人間は多くの点で無力あり、確実性を求めます。

もちろん大人は働くこともできますし、与えられた仕事をやりとげることもできます。

けれども大人は幼児以上に、人生の危険と負担の大きさを知ってもいます。

大人であっても自分では制御できない自然と社会の大きな力の前では無力です。

予測できない事故、避けることのできない病気や死、そのような事実を大人は知っています。

こういった状況の中で、確実性と保護と愛情を与えてくれる力を、狂気のように求めるのは自然なことかもしれません。

このような願望は母親を求める心の「繰り返し」というだけではなく、幼児が母親の愛をもとめるのと同じ条件が、次元が異なっていても大人にも存在しつづけるために生じます。

もしも人間が、男も女もその生涯を通じて「母なるもの」をみつけることができるなら、人生から負担と悲劇はなくなるでしょう。

けれども「確実性と保護と愛情を与えてくれる母なるもの」とは、現実にはありえない幻です。

自分では何一つできないがゆえに「母」に全面的に頼ることが出来た赤ん坊時代の楽園は、永遠に失われた、ということを人間は明確に知ってもいます。

現実には、母と一体であった胎児の状態にもどることも、自然と一体であった動物の状態にもどることもできません。

人間の問題の解決方法は本当は一つしかありません。

それは現実と真正面から向き合う事です。

私たちは、自分の意志とは何の関係もなく、この世界に一人ぼっちで生み出され、また自分の意志とは関係なくこの世界から消えていきます。

将来に関して言うなら「死」以外には確実なものなどは何もありません。

自分の問題を解決してくれる自分を超えた母なる力などは現実にはなく、自分の問題は自分自身で解決するほかありません。

「頼れるものは自分自身の力しかない」という現実をパニックに陥らずにしっかりと認めるならば、「自分に対する責任を担い、自分の様々な能力を発達させる以外には解決法はない」という事実を理解できます。

自分が潜在的に持つ能力、中でも、愛と理性と、創造的な仕事(何かを創り出すこと)を成し遂げるという能力を、人間の限界内で、完全に発達させることだけが、私たちに力強さと勇気を与えてくれ、生きる意味を与えてくれます。

絶え間ない監視、活動、努力、によってのみ、私たちは重要な一つの課題「人間の生命の法則が定めるその限界の中で、自分が潜在的にもつ能力を出来る限り発達させる」という課題を失敗せずにやり通すことができるのです。

人が自分の力をできるかぎり発達させることによって、つまりクリエイティブに(生産的に・創造的に)生きることによって、自分で自分に与える意味のほかには、人生に意味などありません。

そういうことも、やはり人間は知っています。

このように、人間には生まれた瞬間から二つの相反する傾向があります。

一つは明るいところに出ていこうとする傾向であり、もう一つは子宮の暗闇へと退行しようとする傾向です。

冒険を求めようとする傾向と、確実性を求めようとする傾向。

負担をおって独立を求める傾向と、保護や依存をもとめる傾向。

母親は保護と確実性を保証してくれる「力」の最初の化身です。

でも決して母親だけが唯一のものではありません。

子供が成長すれば一人の人間としての母親の代わりに、家族や民族、会社、国、宗教、故郷、政党、といったものが「母」となり、保護と愛情の保証人となります。

あるいは、自然や大地や海が、母の化身となる場合もあります。

「母」が、実際の人間としての母親から、家族、民族、国、故郷、海、大地、自然、へと移動していくことには多くの利点があります。

まず第一に、母親は子供よりも先に死ぬことが多いので「不滅の母」というイメージを作ることが難しいのですが、自然や国であれば可能です。

さらに一人の現実の人間としての自分の母親にすがりついていれば孤独になり、別の母親をもつ他人とは離れてしまいます。

けれども、親戚全体、民族、国、宗教、神、大地、自然、海、であれば、皆の共通の母ですから、この場合は、母親崇拝が個人を超えて、同じ母の偶像を崇拝するすべての人々を結び付け、こうして誰もが母を偶像視することに孤独を感じずにすむようになります。

その集団に共通の母を賛美することは、すべての心を結合し一切の嫉妬を排除します。

多くの「偉大な母なるもの」への崇拝、マリア崇拝、民族主義や愛国主義の崇拝などは、これらの崇拝がどれほど強烈であるかを証明しています。

母親への強い執着を持った人々と、国家、民族、土地および血などに異常なほど強く執着する人々の間には密接な相関関係があります。

母にたいする恐れ

上記のような、「精神的には子供のままの大人」が持っている「母の愛と保護を求める気持ち」が、この人たちが、母あるいは母的な存在に対する近親相姦的な絆から、逃れることのできない理由の一つです。

けれども、この人たちが、母あるいは母的な存在に対する近親相姦的な絆から逃れられないのには、もう一つ理由があります。

それは、この人たちが持っている「母を恐れる気持ち」です。

まず第一に、母あるいは母的な存在に対する「依存心」が「母にたいする恐れ」を作りだします。

なぜなら、母あるいは母的な存在に対する依存こそが、その人自身が元々もっている自分自身の力を弱め、独立する力を弱めるからです。

また、母にたいする恐れの中には「極度に退行したときに現れてくる行動」に対する恐れが、含まれる場合もあります。

幼児にもどって母親のおっぱいを飲みたいという欲求や、母親の子宮の中に引き返したいという欲求に対する恐れです。

このような種類の母にたいする恐れを持つ人の中には、母親を危険な人食い人種や、一切を破壊する怪物として思い描く人もいます。

この種の人々の母親は、実際に人を食うような性格、あるいは吸血鬼のような性格の人なのです。

こういう母親を持った息子や娘が、母親とのきずなを断ち切らずに成長すれば、母親から食われ、破壊されるという極度の恐怖から逃れるすべはありません。

人を狂気にまで追い込むこともあるこの種の恐怖を取り除く唯一の方法は、母親とのきずなを断ち切るその人の能力です。

けれどもこのような関係から生まれる「恐怖」こそが、同時に人が「心理的なヘソの緒」を断ち切ることが難しくなってしまう理由でもあります。

人がこのような依存状態にとらわれている間は、その人の独立心と自由と、自分に対する責任能力は極端に弱まり「努力できない病」も、非常に悪化していきます。

勝手なことをしてはイケマセン!も罠かもしれない

しかしながらこのような近親相姦的なコンプレックスの中には、その退行度においては違いがある場合もあります。

退行度が非常に浅く、あまり問題が大きくはない良性型の「母親にたいする執着」もあれば、「近親相姦的共生」とも呼ばれるような悪性型の「母親に対する執着」もあります。(この悪性の執着についてはまた別の機会に書きます)

良性型の「母親にたいする執着」が、「魔法のヘルパーさん」を求める願望です。

魔法のヘルパーさんを求める願望が発達していく過程は以下のようになります。

成長しはじめた子供が自発性や独立性を発揮しようとしたとたんに、親が子供の行動を「親に無断で勝手なことをしてはイケマセン」と、抑えつけようとします。

すると成長しはじめたばかりの子供は、自発性や独立性を発揮することはイケナイことなのだ感じるようになり、自分の足だけで立つことが難しくなります。

そこで「魔法のヘルパーさん」が必要となり、しばしば自分を抑えつけた当の親を「魔法のヘルパーさん」にしてしまうのです。

やがて子供はこの依存感情を人生のその後に出会う権威を持った人、先生、先輩、上司、夫、妻、などに移します。

つまりこの「魔法のヘルパーさん」を求める願望は、親に対する性的な愛着によって起こるのではなく、子供の独立性と自発性が妨害されることによって、またそこからおこる不安によって引き起こされるのです。

フロムによれば、メンタルヘルス的な問題が作り出される原因の多くは、この「母的なものに対する執着」という基本的な依存性を抱えながらも、社会に対して自由と独立をもとめる戦いを決してあきらめないことから起こります。

多くの「正常な人・普通の人」は、社会と戦うことを、あきらめてしまいます。

「世界中でたった一人の人間としての自分独自の純粋な個性や自然性、自由や理性や独立性の確立」を完全にあきらめ、自分自身を一つの商品にしてしまうことで社会に屈服します。

そうやってうまく社会に適応し「正常な人・普通の人」だと認められます。

メンタルヘルス上の問題点を抱える人々とは、完全には社会に屈服はせず、なんとか自分自身を救い出そうとしながらも、その救出に失敗し続けている人々です。

彼らは、その基本的な依存性のために、自分自身の個性を、創造的にそして自発的に表現することができず、かわりにメンタルヘルス上の様々な徴候を通じて、あるいは妄想的な生活に引きこもることによって救いを求めます。

もちろん、その基本的な依存性を克服し、メンタルヘルス上の問題を抱えることなく、そして社会に完全に屈服することもなく、自分独自の個性を失わずに生きる人間がいることは言うまでもありません。

メンタルヘルス上の問題とは、「基本的な依存性を抱えた状態のままで、自由と独立を求める」その「願望と現実」との間の矛盾をとこうとする挑戦、そして絶対に成功しない挑戦なのです。

「努力できない病」もやはり、目立たない形ではありますがメンタルヘルス上の問題です。

よって、努力できない病をふくむ多くのメンタルヘルス上の問題を解決するためには、まずはこの基本的な依存性を取り除く必要があります。

では、こういった基本的な依存性を取り除くには具体的にはどうすれば良いか?については「がんばれない、変われない、努力できない、を治すたった一つの方法」をご覧ください。

なお冒頭にも書きましたが今回の記述もエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」「人間における自由」および「悪について」からの抜粋を中心に記載されています。

興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。

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