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なんで依存しちゃイケナイの?

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ずいぶん前から気になっていたのですが、時々「依存」という言葉を「助け合い」という意味で使う人がいます。

「人はお互いに依存しあわなければ生きていけない」とかね。

こんな風にして「依存」という言葉に「助け合い」という意味をもたせようとするのは、「依存を正当化したい」という無意識の欲求の表れです。

当然のことですが、このようにして「依存」を正当化するならば、自分の中にある依存性を温存し増幅してしまうことになります。

ん?つまり依存するのはイケナイと言いたいワケ?

でも・なぜ依存しちゃイケナイの?

べつに依存したってイイんじゃない?

だって世の中には、人から頼られることが好きな人もいるし、そういう人はつまり依存されたいんでしょう?

依存されたい人に依存するなら、人に迷惑をかけるワケじゃないし別にイイんじゃない?

そう思われる方もいるかも知れません。

でも、ここで一番申し上げたいことは、「人に依存しちゃイケナイ」理由は「人に迷惑をかけるから」ではナイというコトなのです。

もしも依存される側の人に、まったく迷惑なんてかけない場合でも

逆に依存される側の人が、誰かから「依存されるのが大好き」な人だったとしても、やっぱり「依存してはイケナイ」コトには変わりありません。

だいたいですねー。

ちょっと本題からは外れますが、現代日本社会においては「人に迷惑をかける」ことは、つねに問答無用の「悪」として認定されているようですが、本当にそうでしょうか?

例えば、ココに二人の子供がいたとします。

一人は元気いっぱい好奇心いっぱい生き生きとしてエネルギーに満ちた子供です。

この子は時に、そのありあまるエネルギーで何かを壊してしまったりして、親に迷惑をかけるコトもあります。

もう一人の子供は、いつもオドオドびくびくして大人の顔色ばかりをうかがい、元気もなく好奇心もなく、いつも不安そうな様子をしている子供です。

この子は常に親の顔色をうかがい親に叱られないコトを第一としていますので、親に迷惑をかけることはありません。

この二人の子供をくらべた場合、この元気があり好奇心がありエネルギーいっぱいの子の方が「悪い子」なのでしょうか?

もしかすると親側の目からだけ見れば、そんな風に見えてしまう親も中にはいるのかもしれません。

でも、この子供を一人の人間として見た場合、この元気いっぱいでエネルギーにあふれた子の方がオドオドびくびくした不安げな子より「悪い子」だとは言えないと思います。

では、人に迷惑をかける、というコトが理由ではないとしたら、なぜ「人に依存してはイケナイ」のでしょうか?

なによりも一番の理由は「依存すると力を奪われる」からです。

誰かに、あるいは何かに依存してしまうと、その人が持っている元々の力(具体的な足腰の力だったり、思考力や根気などの精神力だったり、愛情や勇気などの人間としての力だったり)が、その分、奪われ弱まってしまいます。

依存するということは、その依存する人自身を弱くする。その人自身から、元々その人がもっているはずの力を奪ってしまう、だから依存してはイケナイのです。

私達人間がもつ力はすべて、知力でも、筋力でも、人間力でも、その力を使えば使うほど、よりその力は発達し、増大し、強化されていきます。(モチロンある一定の休憩は必要ですが)

その反対に自分がもっている力を、ずっと使わないままでいるなら、ギブスで固めた腕の筋肉が細く弱くなり段々とマヒしていくのと同様に、筋力にかぎらず、精神力でも、人間力でも、すべての力はそれを使わなければ、どんどん弱まり、卑小化し、最終的にはマヒしてしまいます。

現代社会に暮らす多くの人は(自分でそれに気がついていない場合もありますが)実は心の中に強い依存心を持っています。

これは一例ですが、都会育ちの人は田舎育ちの人に比べると、自分の生活に関わる様々な作業や問題について、「それは自分ではできない作業だ。専門家に依頼しなければ解決できない問題だ」という認識をもってしまいがちで、それはそのまま専門家にたいする依存心になっていきます。

私が、この都会人特有の依存心を具体的に知ったのは、田舎暮らしに憧れて20代の終わりに、ホンの短い間ですが長野の山奥の村に暮らした時のことでした。

そこは、最寄りの駅まで車で30分もかかり、もう何十年も子供が生まれていないという過疎の村でした。

この村の人たちは、何かが故障したり、何かの問題がおきた場合、その故障や問題をまず自分たちで解決しようとする姿勢があります。

なぜなら、その問題を解決してくれるはずの専門家が過疎の村にはいませんし、都会の専門家に問題解決を依頼しても、なかなか来てくれない、という状況が昔から日常的だったからです。

私は東京生まれの東京育ちのヘナチョコ都会人で、元々はそれこそ依存心のカタマリのような人間でした。

けれども、自分の「努力できない病」を克服していく過程の中で、自分のなかにある依存心のせいで、自分がどれほど多くの被害を被ってきたのかを理解できるようになりました。

ですから、その過疎の村に移住した当時は、自分では、かなり依存心を克服しているつもりでした。

ところが、その長野の山奥の過疎の村に移住して初めて、その村の人には無いのに、自分の中にはある「大きな依存心」に気づいたのです。

みなさんは、電気やガスの故障などは「専門家に依頼するべき問題」で「自分で処理してイケナイ作業だ」という意識がありませんか?

一般的な都会人はこういう意識をもってる方が多いと思います。

でも、その過疎の村の人たちは違うのです。

たとえ電気やガスの故障でも、まずは自分で何とかならないか?とやってみるのです。

本当のコトを言うと、ガスや電気の故障などの中には法律的に専門家以外がやってはいけないと規定されている作業もあるのですが、その村の人たちは「自分の家を直すのだから問題ないだろう」という感覚でドンドンやってしまいますし、それで何十年も問題なくやってこれているのですから、実際にあまり大きな問題はナイのかもしれません。

こんな風に、自分では気がついていなくても実は強烈な依存心が、自分の中に潜んでいることはとても多いのです。

こういった普段はあまり気付かない依存心が、不意にアクシデント的に取りのぞかれてしまう場合があります。

それが「火事場のバカヂカラ」と言われる現象です。

普段は自分でも気がついていない強い依存心があるのと同様に、その依存心によって押さえつけられてしまい普段はマルで発揮出来ないままでいる、自分でも気づいていない強大な力が、多くの人の中には潜んでいます。

ところが、その隠れた強い力が、誰にも頼れないような緊急の場合に、突如として発揮されるのが「火事場のバカヂカラ」現象なのです。

それは何も肉体的な力だけではありません。

精神的な力でも、まったく同じです。

長い間、ズーっと忘れていた外国語の単語を、緊急の場合に突然思い出した等と言うのも、良く聞く話です。

本当は自分の中に、どれほど強くて大きな力がひそんでいるのか、というコトに私たちが気づづけば、自分の依存心を取り除くという課題の、強烈な重要性と緊急性にも気づくでしょう。

言うまでもないことですが、依存と助け合いは違います。

依存している状態とは、

人が「常に」何かに、あるは誰かに頼り、自分は「頼らなければい生きていけない」と思いこんでしまっている状態であり

助け合っている状態とは

人が「時に」何かに、あるいは誰かに頼り、自分一人では解決できない問題を解決しようとする状態です。

人間誰しも「時に」病気になったり事故にあったり何らかのアクシデントから、一時的に弱くなり助けてもらう必要が出てきます。

助けてもらう必要があるのに助けを求めることができない状態というのは、健全ではありません。

その逆に、「常に」自分は誰かに助けてもらう必要がある、と思い込んでしまっている状態もまた健全ではありません。

もともと人間には誰しも、独立し自分の足で立つ力が(ハンディキャップがある人でも精神的には)あります。

けれども

本当は健全なしっかりとした足腰を持っているのに、自分の足で歩くことを避け、ホンの数十メートル先に行くのにも、「常に」車に頼り、ほとんど歩かない生活を何十年も続けたらどうなるでしょうか?

だんだんと足腰は弱り、歩く力が奪われていき、最終的には完全に歩く力が麻痺してしまいます。

こうして最後には、本当に車がなければ生きていけない人、完全に車に依存した人になってしまいます。

これと同じように、本当は独立して生きる能力をもっているのに、独立して生きることを避け、「常に」人に頼りほとんど独立したことのない生活を何十年も続けたらどうなるか?

だんだんと独立心は弱まり、独立する力が奪われていき、最終的には完全に独立する力が麻痺してしまいます。

こうして最後には、本当に誰か頼る人がいなければ生きていけない人、完全に誰かに依存した人になってしまいます。

これが多くの人が会社をやめたいと言いながらもやめられない理由の一つかもしれません。

さらに、私たちが自分の中の依存性を克服しなければならないもう一つの大きな理由は、依存したいという欲求は、必ず支配したいという欲求と裏表の関係になっている、という点にもあります。

もしも自分の中にある依存したいという欲求を温存し増幅するなら、それは同時に自分の中にある支配したいという欲求も温存し増幅することになります。

こうして自分の中にある依存欲求と支配欲求が大きくなっていけば、それは自分の中にある権威主義的傾向、サドマゾヒスティックな傾向を大きくしていくことになり、それが「努力できない病」を発病させ悪化させることになります。

ちなみに、なぜ権威主義的傾向、サドマゾヒスティックな傾向が大きくなると、それが「努力できない病」を発病させ悪化させることになるのか?については、こちらをお読み下さい→「SMが努力できない病を悪化させるのはナゼか?論理的に説明してみた

「ううむ…。確かにちょっと私の独立力はマヒしつつあるのかもしれない。でもまだ完全にダメになってはいないはず。こんな私はいったいどうすればいいの?」という方は、ぜひ「がんばれない、努力できない、を治すたった一つの方法」を読んでみて下さい。独立力を取りもどすためのたった一つの超具体的な方法が書いてありますよ!

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