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「普通の人」になるためには、「自分」をやめる必要があります。

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「普通の人」だと周りの人に認めてもらうために、本当の自分を偽ったり、本当の自分を押さえつけたり…。

誰もが時に、やってしまいがちな事です。

でも、それが原因でいつのまにか「本当の自分」と「偽物の自分」が入れかわってしまい、そのせいで「努力できない病」にかかってしまうことがあります。

また、あまりにも長い間「本当の自分」を偽り続けた結果、自分でも「本当の自分」が良く解らなくなってしまうこともあります。

「本当の自分」が自分でも良く解らなくなってしまえば、当然「自分は何がしたいのか自分でも良く分からない」とか「自分は何が好きなのか自分でもよく分からない」という状態になってしまいます。

なぜ、そしてどんな時に、このような事がおこってしまうのか?

その社会心理的なメカニズムを主にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」および「精神分析と宗教」からの抜粋を中心に、より解かりやすく解説しました。

もちろん「じゃあ、どうすればイイの?」という解決方法も用意してますよ

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目次

社会が変わるとき、人は二つの分かれ道に立ちます。

第二次世界大戦がおわり、日本は大きく変わりました。

それまでの人権が軽視される封建的な社会から、まがりなりにも民主的な社会へと変化したとも言えるでしょう。

最初は、この変化も表面的なものでしたが、時がたつにつれ実質的にも変化がおこり、人々の意識も少しずつ変わっていきました。

今までの封建的な意識は少しずつ減っていき、その代わりに自由という感覚が少しずつ根づきはじめました。

ただ、少しずつとはいってもヨーロッパに比べれば、かなり急激な変化です。

ヨーロッパの場合、ルネッサンスから宗教改革をへて産業革命までの間に、経済的・政治的な変化は、戦後の日本に比べれば、かなりゆっくりと起こりました。

その経済的・政治的な変化が、コミュニティの形と人々の意識を、やはりゆっくりと、少しずつ変えていきました。

こうしてヨーロッパでは、自由という感覚は、本当に少しずつ増えていったのですが、それでも自由を重荷にかんじる人々は大勢いました。

その人たちが全体主義へとむかい、それがファシズムの温床となったメカニズムについてはエーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で見事に解きあかしました。

日本の場合、この経済的・政治的な変化は、ヨーロッパに比べると、あまりにも急激でした。

第二次世界戦前、日本の一般庶民には自由という感覚は、ほぼありませんでした。

第二次世界大戦が終わった時、日本の一般庶民を代表する農民は、日本の人口の約半分をも占めていました。

野口悠紀雄によれば、当時の農民の生活は、江戸時代から第二次世界大戦中までは、あまり変わらず、多くの農民は、農奴といっても差し支えがないような生活を送っていました。

しかしながら、戦中戦後の様々な法律の改正や、その後の高度経済成長などによって、農民の生活は急激に、そして大幅に変わりました。

まず最初に、食糧管理法や農地改革によって、農民たちは、それまでの奴隷的な立場から解放されました。

そして、奇跡とも言われるような戦後の急激な経済復興から高度経済成長までのあいだに、農村部におけるコミュニティは非常に大きな、そして壊滅的な打撃を受け、生活の形も大きく変わりました。

当然ながら人々の意識にも変化がおこりはじめました。

それでも、国家主導的な中央集権型の経済と、各企業における日本型の、終身雇用・年功序列といったシステムが功を奏していた時代は、「会社」という組織が、昔ながらの地縁的・血縁的コミュニティの代わりになることができました。

そのため、人々はまだ、本格的には「自由」から逃走する必要はありませんでした。

なぜなら、今までの地縁的・血縁的なコミュニティが持っていた「自由を制限する力」が大幅に減った後も、その代わりに今度は会社が「自由を制限する力」を持つようになったため、やはり人々はまだ、あまり本格的な自由を持ってはいなかったからです。

「社畜」や「過労死」という言葉が象徴するように、農奴的生活から離れた後も、今度は会社という組織による奴隷的な生活が始まったのです。

けれども、会社にしばられ自由をもつことはできなくても、同時に、会社に所属しているという安心感や帰属感を持つことは、できました。

しかしながらバブルの崩壊とともに、日本経済にかげりが見え始めると、地縁型・血縁型コミュニティに代わるものとして、今までは強大な力をもっていたはずの会社型コミュニティが持つ力までもが、少しづつ衰えてゆきます。

こうして、最初は地域型のコミュニティの持つ力が減ってゆき、次に会社型コミュニティの持つ力も減ってゆきました。

このようにして、今まで人間をしばりつけ人間から自由をうばい、けれども同時に人間に安心感や帰属感も与えていたあらゆる絆は、段々と希薄になってゆき、やがてそれらは断ち切られます。

すると一人一人の人間は、それぞれが一人の個人として、自分とは何の関係もない大きな世界に立ち向かわなければならなくなります。

自分のことを知りもしなければ、自分に特別に好意をもってもいない強大な「現実世界」と、誰もが、たった一人で立ち向かわなければならなくなってきます。

この時に必然的に強烈な「無力感や孤独感」がおこります。

日本において1998年から急激に増えた自殺率もこのことを示しているように思われます。

もしも自殺したくないのであれば、わたしたちは何とかして、この強烈な無力感や孤独感に打ち勝たなければなりません。

この強烈な無力感や孤独感に打ち勝つためには、二つの道があります。

ひとつめの道は「積極的な自由」へと前進する道です。

そのためにはまず、性欲や利害関係とはまったく別の次元で、自分の方から積極的に人を愛する必要があります。

ただし、ここでいう「愛する」というのは一般にいう「愛する」とは、かなり違います。

それは誰かを好きになるという「感情」ではなく、ゴク簡単に言えば、自由で独立した人間が、自分の中に潜在的にある「愛する力」を使って、他人を積極的に知ろうとし、他人に配慮をし、他人を尊敬し、他人に責任を持とうとする態度のことです。

そして、お金を稼ぐということを目的としてではなく(モチロンそれでお金を稼いでも良いのですが)お金になるかならないかは別とし、自発的に「何かを創りだすコト」を「自分のライフワーク」としてやってゆく必要もあります。

「何かを創りだすコト」とは言っても芸術活動とは限りません、ごく身近な「何かを創りだすコト」についてはこちらをどうぞ→「すべての都会人は料理をするべき理由を論理的に説明してみた」

また創り出すべき「何か」とは、モノとは限りません。例えば「勇気」や「語学力」なども私たちが自発的に創り出すことのできる「何か」にはいります。

この2つの行動により、人間は自分のすべての能力、感情的な能力や、感覚的な能力や、知的な能力を、純粋に自発的に表現することができます。

そしてこれらの行動によって、血縁的・地縁的な絆、あるいは会社での絆ではない新たな絆を作り出し、自分と自分の周りの世界とを、再び結びつけることができるようになります。

こうして、自主性を失うことなく、自分に嘘をつくことなく、自分と自分の外側の世界とを再び結びつけ一つになる、これが積極的な自由へと前進する道です。

二つ目の道は、「自由から逃げだす」ほうへと後退する道です。

自分の外側の世界と自分との間にあるギャップを、取り除くことにより、なんとか自分の孤独感を取りのぞこうとする道です。

でも、この第2の道は決して以前のようには、人とその周りの世界とを結びつけてはくれません。

人間が、血縁的・地縁的な絆にしばりつけられて、自由というものが存在しなかった世界に戻ることはできません。

この第2の道は、もしもその状態が長引けば、生きていけないほどの耐えがたい苦しみからの逃避にすぎません。

ゆえに、この逃避としての道は、恐ろしいパニックから逃れようとする場合と同様に強迫的な性質をもっています。

また、それは多かれ少なかれ自分の個性を失い、自分に嘘をつかなければならないという特徴を持っています。

よって、この道は本当の幸福へとつながる道ではありません。

それは耐えがたい不安をやわらげ、パニックをとりのぞくことにより、なんとか生きていくことだけは可能にしてくれます。

けれどもそれは本当に問題を解決したのではありません。

それは、ただ自動的な、あるいは強迫的な行動だけで成立するような生活を送ることで、問題を棚上げしただけあり、本当の意味での幸福な生活ではありません。

これは原則的には、メンタルヘルス的な問題を抱える人々がとる解決方法です。

それは「サドマゾヒズム的=権威主義」的な傾向への逃避であったり、「破壊」的な傾向への逃避であったり、「子供のままでいたい」という傾向への逃避であったりします。

こういった逃避的な性格傾向を持つ人の中には、その本人自身や、場合によっては周囲の人も、それをメンタルヘルスの問題とはとらえていない場合もあります。

けれどもこういった逃避的な性格傾向というものは、間違いなくメンタルヘルスの問題であり、精神科医の目から見れば、あるいは精神的に健康な人の目から見てもやはり「心の問題」として映るものです。

それぞれの傾向について詳しくは「サドマゾヒズム的=権威主義」的な傾向については「SMが努力できない病をこじらせるのはナゼか?論理的に説明してみた。」でご説明しており、

「破壊」的な傾向については「「努力できない病」と「努力しないではいられない病」は同じです。」でご説明しており、

「子供のままでいたい」という傾向については「生かされている、という考え方にひそむ危険について」でご説明していますので、詳しくお知りになりたい方は、ぜひ読んでみて下さい。

けれども今回ご紹介するのは、一般的にはメンタルヘルス的な問題としては認識されることのない形の逃避です。

一緒なら怖くないね?

この特殊なメカニズムは、現代社会において「普通」だと認められるために、大部分の人々がとっている解決方法です。

人が「自分自身でいるのをやめる」という解決法です。

それぞれの文化で典型的だと思われている性格を完全に受け入れ、まわりの皆とまったく同じような性格になり、周囲の人がその人に期待するような性格になりきってしまう、という解決方です。

こうして「私」と、私の外側の世界との間にある矛盾は消え、それと同時に孤独や無力を恐れる意識も消えます。

このメカニズムは保護色にも似ています。

まわりの人とまったく似たような性格になってしまうため、自分とまわりの人とは、ほとんど見分けがつかなくなります。

自分独自の個性を捨て、ロボットになり、周囲の何百万という他のロボットとまったく同じになってしまった人は、もう孤独や不安を感じる必要はありません。

けれどもその人が払う代償は高価です。

それは「自分」を失うことだからです。

孤独を克服する「普通」の方法がロボットになることである、という仮定は、私たちの文化の中に広くいきわたっている人間観と矛盾します。

私たちの大部分は、自分の思うままに自由に考え、感じ、行動する人間だとみなされています。

それぞれの個人が「自分は自分」であり、自分の考え方や、感情や、願望は「自分のもの」だと真剣に思い込んでいます。

確かに、私たちの中には本当に「自分」というものをもっている人もいますが、たいていの場合、この考え方は一つの幻想です。

しかもこの考え方は、このような状況を作り出す原因を取り除くことを妨げるものでもあるため、危険な幻想でもあります。

自分とは何か?

私たちがここで取り扱うのは、心理学のもっとも根本的な問題です。

自分とは何か?

「本当の自分の行動ではない行動」とはどのような性質のものか?

自発性とは何か?

自分独自の精神的な行動とは何か?といった種類の問題です。

まずは、ある感情や考え方が、本当は自分のものではなく自分の外側から自分に押しつけられてしまったモノなのに、なぜそれを主観的には自分自身の考え方や感情だと思いこんでしまうのか?という問題を考えましょう。

また、それと一緒に、実際にはどのようにして、本当の自分自身の感情や考え方が抑えつけられ失われてしまうのか?というメカニズムの解説もしてみたいと思います。

まず最初に「私はこう感じる」とか「私はこう考えている」とか「私はこうしたい」という言葉で表現される経験が、どのような意味を持っているのかを分析することからはじめます。

ふつう「私はこう考えている」と言う時、本当に「私自身が」それを考えているのかどうか?という点には何の疑問もないように思われます。

「私が今、私の頭の中で考えていることは、間違いなく私自身の考えだ」と、たいていの人は、何の疑問もなく確信しているでしょう。

けれども一つの実験をしてみれば、すぐにこの問題に対する答えが、必ずしもそう単純なものではないことがわかります。

催眠術の実験

催眠術の実験をみてみましょう。

ここに被験者Aさんがいます。

催眠術師BさんがAさんを催眠にかけ眠らせたうえで、暗示を与えます。

「目が覚めた時、ここに持ってきたと思いこんでいる原稿を読みたくなる」とか、「その原稿を探すがみつからない」とか、「もう一人の人間Cさんがそれを盗んだと思いこむ」とか、「Cさんにとても怒りを感じる」等の暗示です。

またAさんは「これらすべての暗示が催眠術でかけられたことに気づかない」という暗示も与えられます。

もちろん、このCさんという人は、それまでAさんが決して怒りなど感じたことのない人物であり、怒る理由もない人です。

そもそもAさんは本当は原稿なんて持ってきてはいないのです。

さて、なにがおこるでしょう?

Aさんは目を覚まし、ある話題について少しおしゃべりした後に「そういえば、そのことについて書いた原稿を持ってきています、読んで聞かせますよ」と言います。彼は探し回りますが原稿はみつかりません。

そこでCさんが持って行ったかもしれないと考えて、Cさんのところに行きます。Cさんがそれを否定すると次第にイラだち、ついにはあからさまに怒りを爆発させ、原稿を盗んだと言ってCさんを非難します。

さらにはCさんが盗んだ理由まであげつらいます。Cさんがその原稿をひどく欲しがっていたとか、それを持っていくのに絶好の機会があったと人から聞いた、などと言いだします。

Aさんは単にCさんを非難するだけではなく、その非難をもっともらしくするために、催眠では与えられていなかった数多くの「合理化」を、自分の中で作りだします。

このとき、その部屋に新たな人物Dさんが入ってきたとします。Dさんはなんの疑いもなくAさんが話していることは、事実Aさん自身が考えたり感じたりしていることだと思うでしょう。

Dさんにとって問題となるのは、Aさんが考えている内容が事実と一致するかどうか、という点だけです。

けれども最初から全てを見てきた人たちはAさんが考えている内容が正しいかどうかを問おうとは思いません。そんなことは問題にもならないことを知っています。

というのも、Aさんが今現在、感じたり考えたりしていることは、本当は彼自身が考えたり感じたりしていることではなく、彼ではない他の人によって彼の頭の中に植え付けられてしまったものであり、自分で考えたことと言えばその与えられた考え方を「合理化」するモノでしかない、ということを知っているからです。

けれども、実験の途中に入ってきたDさんが到達する結論は次のようなものになるでしょう。

ここにAさんという人物がいる、彼ははっきりと「自分の考え」を述べている。彼が何を考えているのかを一番よく知っているのは彼自身だ。彼自身が言っていることこそ、彼がどう「感じているのか」を一番よく表していることは間違いないはずだ。

けれども他にも2人の人がいる。この人たちはAさんの考えや感情は外部から彼に押し付けられたもので、本当は彼自身の考えでもなければ、彼自身の感情でもない、と言っている。

公平に考えて私はどちらが正しいのか決めることはできない。どちらも間違っているのかもしれない。でも2対1なので多数の方が正しいのかもしれない。

しかし、実験を最初から見てきた人には何の疑問もありません。またDさんも、もし改めて最初から催眠術の実験をみれば疑いはなくなるでしょう。

この種の実験は色々な人に色々な内容で無数に繰り返すことができます。

催眠術師は生のジャガイモを美味しいリンゴだと暗示にかけることもできます。すると被験者は生のジャガイモを、さも美味しそうに食べるでしょう。

また被験者は何も見えなくなるという暗示をかけられると盲目になりますし、地球は平らで丸くはないという暗示をかけられると地球は平らだといってきかなくなるでしょう。

このような催眠術の実験から何が証明されるでしょう。

ここから明らかになることは、私たちの考え方も、感情も、願望も、また感覚さえもが、本当は自分自身のものではなく、外から自分の中に植え付けられてしまったものであっても、それを主観的には、自分自身のものだと思いこむことが可能だということです。

つまり、人が自分の精神的な行為(感情、考え、願望、感覚)の自発性を自分自身では確信しているとしても、実際には、ある特殊な状況のもとで、自分ではない他の何者かによって植え付けられてしまった可能性がある、ということです。

このような現象は決して催眠術的な状況だけで見いだされるものではありません。

私たちの考えることも、感情も、願望も、感覚も、その多くは、私たちの外側の世界から私たちに植えつけられたものであり、純粋に自分自身のものではない、という現象はとても一般的なのです。

むしろ逆に、純粋に自分独自の考え方や、感情や、願望や、感覚を持つ人の方が例外的であり、外側から植えつけられてしまった考え方や、感情や、願望や、感覚を持つ人のほうが圧倒的に多いのです。

かと言って、特別な才能や能力のある人だけが、自分独自の感情や、願望や、感覚を持っているという訳ではありません。

もともと人間は誰でも自分独自の考えや、感じや、願望や、感覚を生み出す能力をもっています。

けれども、そういった能力は周りからの影響により押さえつけられ、破壊されてしまうこともあるのです。

その反対に、最初はほとんど未分化で、多くの矛盾を含んでいる自分独自の考えや感情や願望や感覚を、自分自身で取捨選択し、整理し、自分で自分を大切に育て上げていくことによって、自分独自の考えや感情や願望を生み出す「本物の自分」に、統一性と総合性をもたらすこともできます。

このような努力の中でのみ、人間は、総合性と統一性をもった成熟した一個人としての「本物の自分」というものを、創りあげていくことができるのです。

人はこうして自分を失っていく

けれどもまずは、実際には、どのようにして人は「本当の自分」を失っていくのか?その過程を検討してみましょう。

純粋な自分独自の考えや、感情や、願望や、感覚が押さえつけられてしまうプロセスは、通常は幼少時代からはじまります。

例えば、ある5歳の女の子は、母親の言ってるコトとやっているコトが違う、ということに気がついているとします。

ふだん愛情とか優しさを口にしながら、実際には母親は冷たく利己主義で、さらにひどいことに、母親はいつも自分がどれほど道徳的であるかと自慢しているのに、実は浮気しているとします。

この子は、母親の言動の不一致を感じ、この子の正義感や真実感は傷つきます。

けれどもこの子は、決して自分に対する批判を許さない母親に頼らなければならず、さらに父親がとても弱くて頼ることが出来ない人だとしたら、この子は自分の批判的な見方を押さえつけるしかありません。

するとたちまち、この子は、母の言動の不一致や不正直に気がつかなくなります。

この子はすぐに批判的に考える能力を失います。その能力は持ち続けられる望みもなさそうですし、その能力をもつことは危険でもあるからです。

その一方で、この子は、母親は誠実できちんとした人であり、両親の結婚生活は幸福なものだ、という母親の「考え方」を押しつけられます。

するとこの子はこの考え方を、あたかも自分自身の考え方であるかのように受け入れるようになるでしょう。

こうして、本当は自分自身の「考え方」ではなく外から押し付けられた「考え方」を、あたかも自分自身の「考え方」であるかのように受け入れてしまい、本当の自分自身の頭で考えた「考え方」は捨ててしまうのです。

これが、たとえ本人は自分のもつ考え方を、自分自身の考え方だと確信していたとしても、本当は自分自身の考え方ではなく外から押し付けられた「合理化されたニセモノの考え方」が自分の中にできあがってしまうプロセスです。

本当に自分自身の頭で考える「考え方」は常に新しくオリジナルです。

オリジナルということは、必ずしも他の人が以前に考えなかったという意味ではなく、人が、現実の中から、なにか新しいものを発見するための手段として「考える」という道具を使った、ということです。

このような「考え方」が自分独自の考え方です。

「合理化」「正当化」」としての「ニセモノの考え方」には、このような現実の中から何かを「発見する」「おおいをとる」という性質が欠けています。

それは単に自分の中に巣くっている感情的な偏見をかためる機能しかもちません。

「合理化されたニセモノの考え方」は現実の中から新しいことをみつける手段ではなく、自分自身の内側にある偏見を現実と調和させようとする事務的な手続きです。

本当の自分と偽物の自分

以上のようなやり方で、自分独自の考えや、感情や、願望や、感覚は、抑えつけられ、代わりに、自分の外側から自分のものではない偽物の考えや、感情や、願望や、感覚が植え付けられます。

こうして最終的には本当の自分が偽物の自分に置き換えられる、というところまで進んでいきます。

本当の自分とは、実際に自分自身の考えや、感じや、願望や、感覚を生み出す者であり、偽物の自分とは、他人から期待されている「役割」を、自分という名前のもとに行う代理人にすぎません。

みなさんの中には「確かに人は色々な役割を演じることもあるが、どんな役割を演じていようと自分は自分だ」と思う方もいるでしょう。

でも実際には、そこで言われている「自分」というのは、それらの色々な役割の総称でしかありません。

そこで言っている「自分」というのは、日本人であり、男性であり、女性であり、○○家の長男であり、長男の嫁であり、会社の部長であり、OLであり、夫であり、妻であり、父であり、母であり、学生であり、○○さんの息子であり娘である、そういった役割の総称なのです。

「自分」とは、つまり「日本人とは、男とは女とは、○○家の長男とは長男の嫁とは、部長とはOLとは、夫とは妻とは、父とは母とは、学生とは、○○さんの息子とは娘とは、このよう人間であるはずだ」と周りから期待されている「役割」そのものなのです。

ほとんど、とまでは言いませんが、実に多くの人が、「本当の自分」は、このような、単なる役割としての自分(偽物の自分)に、完全に抑えつけられてしまっています。

ときおり、夢や想像の中で、あるいはお酒を飲んだ時などに、本当の自分が表れて、その人が何年間も経験しなかったような感情や考え方が出てくることがあります。

それらは、しばしばその人が恐れたり恥ずかしく思ったりして、抑えつけてきた良くないモノです。

でも時によっては、それはその人の中にある最も良いモノである場合もあります。

ただ、そのような感情や考え方をもっていると周りの人から笑われたり、変わり者扱いされる恐れがあるために抑えつけてしまったものなのです。

本当の自分を失い、自分が偽物に置き換えられてしまった、という事実は人を激しく不安にさせます。

この種の人達は、本質的には他人の期待の反映であって「自分」という感覚をある程度、失ってしまっているので「自分は何がしたいのか?」「自分は何が好きなのか?」ということが良くわからなくなっています。

このような人の中には「何かをしたい」という自発的な感覚を感じることが出来なくなってしまっている人もいます。

この「自分」という感覚を失ってしまったことからやってくる恐怖を克服するために、この人達は、周りに合わせることを強いられます。

他人にたえず認められ承認されることによって、なんとか「自分」という感覚を保っているのです。

こうして多くの人が、まるでロボットのような人ばかりになってしまうと、社会の中には当然ながら無力感と不安感が増大します。

そのため人々は、安定を与え疑いから救ってくれる新しく強力な権威にたやすく従属しようとしてしまうのです。

このようにして、社会のなかで権威主義的な傾向が高まれば「SMが「努力できない病」を悪化させるはナゼか?論理的に説明してみた」で説明したように、社会全体の無力感はさらに強まるため、個々の人が、自分自身の成長や幸福のために継続的な努力をすることが、よりいっそう難しくなっていきます。

ではどうすればよいか?それについては「がんばれない、変われない、努力できないを治すたった一つの方法」をご覧ください。

冒頭にも記載しましたが、今回の記事も主にエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」および「精神分析と宗教」の論旨に従い、書籍からの抜粋を中心に書いています。ご興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。

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