少し前に「このハゲーっ」で有名になった豊田真由子元議員にかけられた暴行容疑は、被害を受けた元秘書の方が豊田氏の処罰を求めない上申書を提出したことにより、不起訴となりました。
豊田元議員は選挙でも落選しましたし、社会的な制裁はもう十分受けたと言えるのかも知れません。
けれどもまだ、彼女がキレまくって元秘書の方を怒鳴りつけている音声データはあちこちに出回ったままです。
なぜ彼女は、ここまでキレやすいのでしょう?
ちょっと豊田さんのことを調べてみましたところ、どうやらこの方はいわゆる中流階級といわれるクラスに育った方のようです。
実は、この中流階級、ミドルクラスの人々こそが、ロウアーと呼ばれるような下層階級の人よりも、そして、逆にセレブと言われるような上層階級の人々よりも、もっとも「キレやすく、イラつきやすい」人々なのです。
「このハゲーっ」騒動では、このキレやすさは元秘書の方へとむかい、あの暴言となったワケですが、このキレやすさが自分自身へと向かえばワーカホリックとなったり、最悪な場合は自殺願望にさえなってしまいます。
「キレやすさ」とは、人間の中にひそむ破壊性の表現であり、いったん破壊性が人間の中に作られてしまうと、その破壊性は他人を攻撃するだけではなく、必ず自分自身をも攻撃しはじめます。
この、他人のみならず自分自身をも攻撃し破壊しようとする傾向は、なぜ、そしてどのようにして人間の中で作り出されるのでしょうか?
そしてミドルクラスの人々において、なぜ破壊性が最も強いのでしょう?
また、この破壊性は「努力できない病」と、どのような関係があるのでしょう?
今回の記事では以上の点について、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の論旨にしたがい、その抜粋を中心にして、わかりやすく書いてみたいと思います。
目次
変化の時代、中流階級はイラつきます。
ITなどの新しい技術の発達によって大きく社会が変わろうとするとき、新しい産業の発達により恩恵を受けなかった人々は、逆に深刻な脅威を受けます。
自分が今までもっていた仕事や地位などが脅かされれば、当然ながら、誰もが敵意という破壊的なリアクションをとるでしょう。
さらに、破壊性をつのらせる、もう一つの要素があります。
新しい技術の発達によって恩恵を受けた人々が見せびらかす贅沢や権力に対する、激しい嫉妬です。
でもそれはアッパークラスもミドルクラスもロウワークラスも同じです。
しかしながら、敵意と嫉妬はつのっても、ミドルクラスの人々はロウワークラスやアッパークラスの人々のようには、それを自由に表現することができません。
ロウワークラスの人々は自分達からしぼりとる金持ちを憎み、そのような社会構造じたいを変えようと望み、社会に対して自分達の憎悪や敵意を遠慮なく表すことができます。
アッパークラスの人々もまた、その権力によって台頭してきた新しい勢力に対する攻撃性を直接表現することができます。
けれどもミドルクラスの人々は違います。
ミドルクラスの人々全体をみた場合、実際には今までの経済秩序の崩壊と新しい技術の発展によって、有利になるよりもむしろ危険にさらされる人の方が圧倒的に多いのです。
しかしながらミドルクラスの人々は、非常に貧しい人々と非常に裕福な人々の中間にいるので、そのリアクションも複雑で、多くの点で矛盾をふくむものになります。
ミドルクラスの人々というのは基本的には保守的な性格をもっています。
彼らは社会が安定したままでいることをのぞみ、それをくつがえそうとは思いません。
彼らは安定したままの社会が今よりさらに発展してくれて、自分達もその発展の恩恵に与りたいと願っています。
ですからロウワークラスの人々のように、現存の社会に対する敵意をあらわにすることはできません。
それどころか、社会に対する敵意という、自分の中の破壊性を意識的に感じることすらできず、この破壊性は無意識へと押し込められます。
けれども無意識へと破壊性が押し込められたということは、ただ自分が破壊性をもっているという意識をとりのぞくだけであり、破壊性そのものは無くなりません。
そのうえ、押し込められた破壊性は直接表現されることがないために、変装し合理化された形で、その人の性格全体にいきわたるまでに増大してしまいます。
こうして他人に対する関係にも自分自身に対する関係にも「合理化された破壊性」がいきわたることになります。
これが些細なことでキレやすくイラつきやすく憎しみに満ちた性格ができあがる仕組みです。
ミドルクラスの破壊性は、しばしば「道徳的な怒り」という形で合理化されます。
このような破壊性を内に秘めた人々は、ちょっとしたルール違反をあげつらい激しい怒りを爆発させがちです。
ネットリンチも、このように普段から息をひそめ攻撃できる獲物を待ちかまえている「破壊性」が、うってつけと思われる道徳的な怒りの矛先を見つけた時におこる、爆発的な破壊性の表現なのかもしれません。
また、この種の破壊性は、あらゆる人や事柄にたいする「強烈な猜疑心」という形で合理化されることもあれば、他人に対する「軽蔑や嫌悪」という形で合理化されることもあります。
「努力しないではいられない病」と「努力できない病」は同じ病気です。
この種の破壊性が自分自身へと向かった場合、それは極度の卑下という形で、自分の罪と無意味さを強調することもあります。
このように極度に自分を卑下する人たちが使う「義務」という言葉は、自分自身に対する破壊性で出来ているケースがほとんどです。
このような性格傾向の人々がもつ「良心」とは、自分によって自分の心の中に引き入れられた奴隷監督です。
「良心」は、その人が自分自身のものだと「信じている」願望や目的にしたがって行動するように、その人をかりたてます。
けれども本当は、その願望や目的は自分自身のものではなく、自分の外側にある社会的な要求を内在化したものなのです。
こうして「良心」は残酷にその人をかりたて、快楽や幸福を禁じ、極度の卑下と自分自身の無意味さを強調し、その人に禁欲主義と絶えまない努力を強い、その人の全生涯を何か良く解らない罪にたいするツグナイとします。
豊田真由子さんの場合も、ご自分で「ワーカホリック」とおっしゃられていたように、この種の「良心」にかりたてられ、絶えまなく仕事をしないではいられなかったのではないでしょうか?
このような「努力せずにはいられない病」は「努力できない病」の反対ではありません。
この二つは、どちらも人間の機能障害の裏表であり、その二つの徴候です。
努力せずにはいられない病の人は、安定した精神状態のもとで努力すべきと思う合理的な目標に対して自発的に沈着に冷静な努力を続けているのではありません。
努力できない病の人がどうしても「努力することができない」ように、努力せずにはいられない病の人は、どうしても「休むことができない」のです。
この人たちは「良心」によって駆り立てられ、たとえ自分の体を壊そうと、秘書に無理な残業を強いようと、熱狂的に、がむしゃらに努力せずにはいられないのです。
この種の「良心」や自己卑下は、本物の良心や謙遜とは違って、他人にたいする愛や慈悲を伴わず、他人に対する嫌悪や軽蔑を伴います。
自己卑下や自己否定的な「良心」と、他人に対する軽蔑や嫌悪は、どちらも内面化され合理化された破壊性の表現なのです。
みんなも持ってる破壊性
もちろん社会に大きな変化がおこるときに、破壊性をつのらせるのは単にミドルクラスだけではありません。
技術の大幅な発展により、社会の構造さえもが変わろうとする時、すべての人は大きな衝撃を受けます。
特に、今まで人間をしばりつけ人間から自由をうばい、けれども同時に人間に安心感や帰属感も与えていた血縁や地縁による絆が断ち切られるような時、
一人の人間が「イチ個人」として、自分とは何の関係もない大きな世界、自分のことを知りもしなければ、自分に特別に好意をもってもいない強大な「現実世界」と立ち向かわなければならなくなった時、
必然的に、ほとんどの人が「無力感や孤独感」を感じます。
この無力感や孤独感に打ち勝つために、そのような不愉快な感覚を自分にあたえてくる自分の外側の世界を破壊し、そこから逃れようとする情熱として破壊性が生まれるのです。
もしも望むとおりに、自分の外側の世界を破壊することができたとしても、やはり人は同じように孤独で無力でしょう。
けれどもこの時の孤独や無力には問題はありません。
なぜなら、もう外の世界の圧倒的な力によって押しつぶされることはないからです。
自分の外側の世界を破壊しようとするのは、外側からの圧迫から自分自身を救い出そうとするための、ほとんど自暴自棄的な最後の行動なのです。
facebookでは感謝ばかり、Twitterではキレてばかり
現代の人間関係を観察すれば、いたるところに破壊性が存在することに気がつかない人はいないでしょう。
個人が特定されるfacebookではみんな感謝してばかりいるのに、匿名のTwitterではみんながすぐにキレまくっている、というツイートが多くのリツイートを集めたのは最近のことです。
学校でも会社でもあらゆるところに破壊性は存在しています。
けれどもその大部分は「破壊性」としては認識されず、さまざまな方法で合理化され正当化されています。
どんなものでも、破壊性を合理化するための役に立たないものはありません。
愛、義務、良心、正義、愛国心、道徳、人の迷惑、プライド、などが、他人や自分自身を破壊するためのカムフラージュとして利用されてきましたし、また現在でも利用されています。
2種類の破壊性
けれども破壊性には2種類あることも事実です。
ひとつめは特殊な状況を原因とする破壊性です。
自分の生命や尊厳、心から信じる理想などに攻撃が加えられるときに、その攻撃に対するリアクションとして起こる反撃としての破壊性です。
この種の破壊性は生命を守るために自然に起こる合理的な破壊性です。
しかし、ここで問題にしている「破壊性」とは、このような合理的な、そしてリアクションとしての破壊性である敵意のことではなく、人間の内側にたえずひそんでいて、何かのチャンスがあればすぐに飛び出そうと待ち構えているような「不合理な敵意」です。
もしも、敵意をもつべき客観的な理由は何もないのに、常に敵意を抱いているような人がいれば、私たちは、その人のことを精神的に病んだ人だと考えます。
けれども破壊的衝動の合理化である「不合理な敵意」の多くは、少なくとも何人かの人々がその合理化に加わるため、その集団に所属する人にとっては、それがあたかも「現実的で合理的な敵意」だと思われています。
しかし、不合理な破壊性がどのような対象に向かうか、またその対象がどのような理由で選ばれるかは大して重要ではありません。
破壊的衝動は、耐えがたい無力感と孤独感をもった人間の中にある一つの激しい感情であり、それは必ず、なんらかの対象をみつけだすのです。
破壊性は、他人と自分へ向かいます。
もしも他人がどうしても破壊性の対象にならなければ、自分自身がたやすくその対象となります。
極端な場合、肉体的な病気になることもあり、自殺さえもひきおこしかねません。
しかしながら、ここで注意して欲しいのは、破壊性のベクトルは、外側に行けない場合にだけ内側に向かうというわけではない、という点です。
人間の中にひそむ不合理な破壊性は決して外側へだけ、あるいは内側へだけと、どちらか片方にだけ向かうわけではありません。
破壊性の主な方向性が、外側か内側かの違いはあっても、常にその攻撃性は双方向へと向かいます。
その破壊性の主な矛先が、自分の外側、つまり他人へと向かっている場合は、例えばワーカホリックなどの変装され抑えつけられた形で、破壊性は同時に自分自身の方へも向かいます。
反対に、例えば極端な卑下や自殺願望のような形で、その破壊性の主な矛先が自分自身へと向かっている時は、他人へと向かう破壊性は、相手の迷惑になるくらい極端に人の世話をしたがる、もしくは異常に猜疑心が強い、といった風のやはり変装され抑えつけられた形で表現されます。
性格としての破壊性は常に全方向に向かうものであり、その矛先を他人だけあるいは自分だけと限定することはできません。
憎しみや、妬みといった感情を野放しにして、他人に対する憎悪という形で自分の中の破壊性をつのらせるなら、それは他人のみならず、ひいては必ず自分自身も傷つけずにはおきません。
「殺すなかれ、憎むなかれ、妬むなかれ」といった戒めが、単に権威主義的な道徳の中だけではなく、人間的な道徳においても規範となるのはこのような理由からなのです。(権威主義的な道徳と人間的な道徳の問題についてはこちらを読んで下さい「正しい自己中のすすめ」)
豊田真由子元議員の場合も、元秘書の方に向かった破壊性の強さからいえば、もしも同じ強さの破壊性が自分自身へも向かっていると考えた場合、彼女の極度のワーカホリック的な傾向にも、うなずけます。
それは最悪な場合、かなり強い自殺願望になってしまう可能性すらあるかもしれません。
不安感が破壊性を作る
破壊性に支配されている人間は、自分と比べなければならない全ての対象を取り除くことにより、あるいは自分自身をとりのぞくことにより、その耐えがたい無力感や孤独感から逃げ出そうとします。
この「耐えがたい無力感と孤独感」が、不合理な破壊性の源泉です。
けれども、破壊性を作り出しているのは「耐えがたい無力感と孤独感」だけではありません。
「耐えがたい無力感と孤独感」を原因とする「不安」と「生命力に対する妨害」の二つもまた、同時に直接、破壊性を作り出します。
不安については多くを語る必要はないでしょう。
自分にとって特別に重要な、物質的な、あるいは精神的な何か、がおびやかされれば当然、不安が生まれます。
そして破壊的な傾向はこのような不安に対するもっとも一般的なリアクションです。
自分をおびやかすのは、ある特定の状況や、ある特定の人である場合もあります。
このような場合、破壊性はその特定の何かへと向かいます。
また自分をおびやかすものは、絶え間ない不安(かならずしも意識されているともかぎらない)である場合もあります。
それは外界によって「たえず自分はおびやかされている」という気持ちから生まれます。
この種のたえまない不安は、破壊性を発達させる「孤独で無力な状態」から生まれます。
また「孤独で無力な状態」は「生命力に対する妨害」も生み出します。
孤独で無力な人間は、自分の生命力を表現することができません。
人間の生命力は、その人の感覚的、感情的、知的な能力を発揮することによって表現されますが、孤独で無力な人間はそういった能力を十分に発揮することができないのです。
なぜなら、これらの能力を発揮するための条件である、精神的な安定感と自発性を欠いているからです。
こうして、「耐えがたい無力感と孤独感」それによって作られた「不安」と「生命力に対する妨害」これらすべてが、破壊性を作りだしますので、破壊性の増大はとどまるところを知りません。
快楽は罪じゃない、ってわかってるけど。
また「生命力に対する妨害」は、道徳として正当化されがちな「快楽や幸福を否定しがちな文化的タブー」によって、さらに増大します。
「大声で笑うなんてはしたない」「快楽は罪」「贅沢をするとバチがあたる」「休むなんてナマケモノだ」こういった文化的なタブーは、今日ではだいぶ減少してはいます。
けれども「快楽は罪ではない」と知性は認めても、感情的なタブー感はいぜんとして残っています。
この「生命力に対する妨害」と破壊性との関係、という問題については、フロイトもそれを取り上げています。
フロイトの破壊本能について
最初フロイトは、性的な衝動と自己保存欲求が、人間の行動の二つの基本的な動機だと考えていました。
その頃は、破壊衝動の重要さを軽視していたからです。
後に彼は、破壊的な傾向が、性的な傾向と同じように重要であることを確信し、人間のなかには、次のような二つの基本的な傾向がみいだされると仮定するようになりました。
一つは、生命をもとめ多かれ少なかれ性のリビドーと一致するような本能と、もう一つは生命の破壊をめざす破壊本能です。
彼はこの破壊本能が性的なエネルギーと絡みあうこともあり、その時にそれは自分自身にむけられることも、自分以外にむけられることもあると仮定しました。
彼はさらに、破壊本能とは、すべての生物がもつ生物学的性質であり、ゆえに生命の必然的で変えられない部分であるとも仮定しました。
破壊本能というものを仮定することじたいは、フロイトの初期の理論で軽視されていた破壊的な傾向を十分に考慮にいれるという点から見れば、妥当なものです。
しかし、破壊性の程度が、個人により、また社会集団により非常に変化するという事実を十分に考察せずに、ただそれを生物学的な説明だけで終えるとしたら、それは妥当なものではありません。
もしもフロイトの仮説が正しいとすれば、他人にたいする破壊性にせよ自分にたいする破壊性にせよ、誰もが同じ程度の破壊性をもつものと仮定しなければならないでしょう。
ところが実際の観察ではその反対です。
破壊性の程度は同じ文化の中で生活する個人のあいだでも非常に差があるばかりではなく、異なった社会集団のあいだでも等しくありません。
冒頭に書いた通り、現代におけるミドルクラスの人たちがその性格の中にもつ破壊性は、ロウワークラスやアッパークラスのひとたちがもつ破壊性よりもはるかに大きいのです。
また文化人類学の研究は、他人に対する敵意にせよ、自分自身にたいする敵意にせよ、とくに多くの破壊性をもった民族がある一方、そのような傾向がほとんどない民族があることを示しています。
精神分析的な観察から言えば、自分自身に対してほとんど敵意を持たない人達の中には、他人に対する強力な破壊性はみられず、かえって自分自身に対する敵意が多い人ほど、他人に対する敵意が多いという状況がみられます。
破壊性は、生きることができない命
以上のような観察から考えられる仮説は、個人のうちにみられる破壊性の大きさは、「伸びていこうとする生命力がおさえつけられてしまう」程度に比例するのではないか?というものです。
この「伸びていこうとする生命力がおさえつけられる」というのは、言葉をかえていうと「人間が自発的に成長しようとして、自分の生命力を表現しようとしたときに、それが何かによって妨害される」ということを意味しています。
生命はエネルギーをもちます。
生命エネルギーは成長し、表現し、生きることをもとめます。
もしもこの「生きよう」とする傾向が妨害されると、生命をもとめるエネルギーは歪められ、破壊を求めるエネルギーに変わるのではないでしょうか?
言い換えれば、生命をもとめる衝動と、破壊をもとめる衝動の二つは、互いに独立したものではなく、お互いに絡み合い依存しあっているものと考えられるのではないでしょうか?
生命をもとめる衝動が妨害されればされるほど、破壊をもとめる衝動は強くなり、生命力が強くなればなるほど、破壊性は弱くなる、と言えるのではないでしょうか?
つまり、破壊性は、「生きられない生命」から生まれる、と言えるのではないでしょうか?
生命をおさえつけようとする個人的もしくは社会的な条件は、何かを破壊しようとする暴力的なエネルギーを生み出し、そして、この暴力的なエネルギーがいわば「ため池」」となり特殊な破壊的な性格傾向を助長すると考えられるのです。
よって、生命力をおさえつけようとする禁欲的な傾向が美化され賛美されがちなミドルクラスおいては、当然ながら破壊的性格は、より助長されてしまいます。
こうして文化的に規定された感情的なタブー感からぬけだすことができずに、快楽を罪悪視しがちなミドルクラスの人々は、生活を楽しむことができるアッパークラスの人間、あるいは「恥知らず」なロウワークラスの人間にたいする激しい羨望を「道徳的な怒り」として正当化するのです。
お育ちが良い方は、イライラしやすい。
もしも、あなたがセレブとまではいかないけれども、どちらかといえば「お育ちの良い方」で、病的にイラつきやすいとすれば、その原因は、カルシウムの不足ではないかもしれません。
それは、あなたが、国のため、社会のため、会社のため、親のため、家名のため、子供のため、家族のため、仲間のため、義務のため、大義名分のため、名誉のため、プライドのためには、絶え間なく、まるで駆り立てられるかのように「努力せずにはいられない」のに
一人の弱くて未熟な人間としての等身大の自分自身のため「だけ」には、自発的な努力ができないコト、あるいは自発的に能動的に一人の人間として人を愛する能力がないコト、などと関係しているのかもしれません。
そういった状況が、「耐えがたい無力感や孤独感」「不安感」「自分が潜在的にもっているあらゆる能力を発達させ表現できないこと」などを作り出し、そしてそのような状況が作り出した「破壊性」を、ミドルクラスに独特な経済的な立場や文化的なタブーが増大させているせいかもしれません。
ではどうすれば良いか?
その解決方法については、こちらを参考にしてください。→「がんばれない、変われない、努力できない、を治すたった一つの方法」