ええとですね。
セックスについてのタブー感が減ってゆき、セックスについて気軽に話せるようになるコト、これはすごーくイイコトだと思います。
「言論の自由」なんて持ち出さなくても、何か話しちゃイケナイ話題があることじたい、間違いなく精神衛生上イイわけないですから。
だけど、どーしても気になるのが、S(サド)とかM(マゾ)とかを、まるでなんの問題もない態度であるかのように話される方々です。
「私、どエムなんですよ」とか、「実はどエスなんです」とか・もうね、正々堂々を通り越して、誇らしげに話す方までいらっしゃいます。
もちろん、この手の話をされる方がすべて自分のセックスの趣味について話してるわけではなく、自分の性格がマゾヒスティックだとかサディスティックだとか話していらっしゃる場合も多いのですが。
それが自分の性格について話してるにせよ、あるいは自分のセックスの趣味について話してるにせよ、サデスティックであること、あるいはマゾヒスティックであることは、決して誇るべきことではありません。
サディストあるいはマゾヒストは、その人自身の人間としての成長や幸福をダメにしてしまい「努力できない病」を悪化させてしまうのです。
ではなぜ、SMがそんな問題を引き起こしてしまうのか?
その理由を、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」および「人間における自由」の論旨にしたがって、社会心理学的な視点から説明してみたいと思います。
目次
盗みを正当化する冗談
たとえば、こんな人をどう思いますか?
「人の物盗むのが癖なんです」とか「盗みが大好きです」とか、冗談にせよ、しょっちゅうそんな風に言う人、ちょっとアレ?って思いませんか?
これは「盗む」というコトが、絶対的な悪として考えられている社会においては、少し受け入れにくい冗談です。
それは「盗みは悪い」という価値観に反する態度であり、そんな風にして「盗む」という行動をある意味正当化しているかのようにも聞こえる冗談には、反感を持つ人もいるでしょう。
つまり、「サディストやマゾヒストは絶対的な悪だ!」という前提があれば、もしもそのような傾向を持っている人がいたとしても、その人は冗談であっても、それを正々堂々と人前で言うことは少ないでしょう。
ということは、サディストやマゾヒストは現代日本社会においては絶対的な悪とは考えられていないということです。
SMは絶対的な悪ではない
実は、いわゆる権威主義的な社会においては(現代日本社会もそのひとつです)サド・マゾヒスティックな行動は、美化されたり正当化されたりすることが多く、たいていの人は多かれ少なかれ自分の中にサド・マゾヒスティックな要素をもっています。
その中でも特にサド・マゾヒスティックな要素が性格のほとんどを占めた人を「サド・マゾヒズム的性格の人」ということができるかもしれません。
かといって、サド・マゾヒズム的性格の人が、異常な人だというわけではありません。
こういったある種の性格が、異常と呼ばれるか正常と呼ばれるかは、その人の社会的な役割や、その人が所属する社会や文化の中で、一般的だと思われている感情や行動のカタチによって左右されます。
ですから、自分の性格が、実はサド・マゾヒズム的性格であっても「友達もみんなもそうだから問題ない」と思っていたり、むしろそれを「カッコイイ」と思っている場合すらあります。
人は何かの行動をするときに、本当は自分の中のサド・マゾヒズム的な衝動につき動かされて行動しているとしても、必ずしも自分でそれを意識しているとは限りません。
徹頭徹尾サディズム的な衝動によって支配されているのに、意識的には自分は義務に従っているだけだ、と信じている場合もあります。
また、このように自分の中のサディズムやマゾヒズムを「義務」などの名前で正当化することが出来ない人の場合は、どうなるでしょう?
自分の中にサディスティックな衝動やマゾヒスティックな衝動が大量にあるのに、それを正当化することができず、それでいながら正当化している人と同じように、やはり自分の中のサドマゾヒズムを意識することもできない人の場合、
「自分では本当はそんなコトするつもりではなかったのにしてしまう行動」が多くなっていきます。
あきらかに不合理だとわかっているのにどうしてもその不合理な行動をしてしまう、あるいは、あきらかにその行動をするべき合理的な理由を理解しているのに合理的な行動が出来ないという、まさに「努力できない病」にありがちなパターンに陥ってしまうのです。
こうして自分の行動を自分でコントロールする力が減っていくと、自分に対する信頼度が下がります。
自分に対する信頼度が下がれば、精神的な強さや安定性も下がっていくことになります。
つまり自分の中のS度あるいはM度が上がるほど、人は自由ではなくなり、理性的な行動ができなくなっていき、合理的に考えればそれが一番自分にとって良いことだとわかっているはずの「自分自身の人間としての成長や幸福のためのコツコツとした努力を続けること」ができなくなっていくのです。
「でも自分はサディスティックな衝動やマゾヒスティックな衝動につき動かされて自分で自分をコントロールできなくなることなんてないから大丈夫」と、思ってる方、本当にそうなら問題ないのですが、
もしもあなたが「禁煙したいのに禁煙できない」とか「やせたいけどやせられない」とか「勉強したいのに勉強できない」等の、問題を抱えているとしたら、
つまり、「自分が今やっている行動(例えば、タバコを吸うこと)は、明らかに不合理だ、自分にとって害になるだけだ、これはやるべきではない行動だ」とアタマではハッキリと理解していながら、それでも合理的な行動(例えば、タバコをやめること)ができない、という問題をかかえているとしたら、
実はあなたの中の、サディスト的な傾向やマゾヒスト的な傾向がそのような問題を作り出しているのかもしれません。
SMは逃避だ
フロイトとマルクスを統合したと言われている社会心理学者でもあり、20世紀最大のヒューマニストの一人でもあるエーリッヒ・フロムによれば
サディズムやマゾヒズムとは、人間が自分の孤独感や無力感から目を背けるために、やらずにはいられない行動の一つです。
フロムによれば、人間が自分を偽らず自分の個性を失わずに、その孤独感や無力感を克服するためには、自発的に人を愛するコトと、自発的に何か(モノに限らず語学力や演奏能力なども入ります)を創りだすコトしかありません。
ただし、ここで言っている「自発的に人を愛するコト」というのは、一般にいうところの「愛するコト」とはかなり違うものです。
ごくごく簡単に言えば、それは誰かを好きになるといった「感情」ではなく、自分の中に潜在的に存在している「愛を生み出す能力」を使うコトです。
それは相手に対する配慮と尊敬と責任と知識を含むものであり、愛する人の成長と幸福のために行う「積極的な努力」です。
でも、様々な理由から、自発的に愛する能力や、自発的に創りだす能力を失ってしまった場合、人間はその耐え難い無力感や孤独感から「逃避するための行動」として、マゾヒズム的な行動、もしくはサディズム的な行動へと走ります。
「逃避するための行動」とは、恐怖に襲われたときに人がしてしまう不合理な行動です。
例えば、火事になった建物に取り残された人が、部屋の窓から外に向かって「助けて!」と叫んでいるとします。
この人は、窓の内側からどんなに叫んでも、自分の声は外側の誰にも聞こえないコト、そしてそんなところで叫んでないで、あと数分のうちに焼け落ちてしまいそうな階段から、今すぐ逃げなければならないコト、に気づいていません。
あまりにも火事が恐ろしすぎて、あまりにも火事から逃れたいと思う気持ちが強すぎて、冷静に周りを見回す力を失っているのです。
この人は「助かりたい」と思って叫んでいます。
この人にとっては「叫ぶ」という行動が助かるための行動に思えます。
でも実際には、その行動は逆に、助かる可能性をつぶしてしまうのです。
これと同じように、マゾヒズム的な行動あるいはサディズム的な行動は、直視するのがあまりにも恐ろしすぎる自分自身の欠点や、深い悩み、耐え難い無力感や孤独感、自分の生き方にたいする疑問といったものから目を背け、そのような苦痛から逃れたいという願望からおこります。
けれども、それは単に表面的な苦痛を取り去るだけで、実際には人をさらに大きな苦悩へと向かわせてしまいます。
サドとマゾの特徴
マゾヒストは自分の孤独と無力から目をそむけ、何とかそれを忘れるために、圧倒的に強いと感じる人や組織などに完全に依存し服従しようとします。
そのためマゾヒストは本当の実力よりもさらに自分自身を完全に弱く頼りない者に見せようとし、それによってその強い誰かに依存する資格を得ようとします。
そしてその依存した誰かの力を、分け与えてもらおうとするのです。
サディストは自分の孤独と無力から目をそむけ何とかそれを忘れるために、他人を完全に支配し、思うがままに他人を操ろうとします。
そのためサディストは本当の実力よりもさらに自分を完璧に強く欠点のないものにみせようとし、それによって誰かを支配する資格を得ようとします。
そして支配した人の力を、自分の力の一部とすることで自分の力を増やそうとするのです。
こうして、どちらの場合も、その人自身の実際の実力は、自分自身にたいしてもゴマかされ、過小評価、あるいは過大評価されるために、当の本人までもが、段々と「等身大の本当の自分」が解らなくなっていきます。
こうして、次第に次第に、元々その人が持っていたその人本来の個性は、失われていってしまうのです。
サディストはマゾヒスト
このように書くと、まるでサディストとマゾヒストは正反対のようですが、実はこの二つの性格は常に一人の人の中に同時に存在します。
フロイトは、「サディズム的な傾向とマゾヒズム的傾向とは矛盾しているように見えても、常に一緒に発見される」ということを強調しました。
サディスト的な面だけを持っている人、あるいはマゾヒスト的な面だけを持っている人はいません。
サディストとマゾヒストは常にひとりの人の中にある背中合わせの関係なのです。
まるで振り子のようにサディズム的な傾向が表にでたり、マゾヒズム的傾向が表にでたり、ある瞬間にどちらが働いているかを見極めるのは難しいことさえあります。
SMは権威主義だ
サドマゾヒズム的性格の人間の特徴は、権威に対する態度にハッキリと現れます。
サドマゾヒズム的性格の人は権威をほめたたえ権威に服従しようとします。
そして同時にその人は自分自身が権威になろうともします。他の人を自分に服従させたいと願ってもいるのです。
ですから、サドマゾヒズム的性格は、権威主義的性格と言うこともできます。
権威主義的性格の、もっとも重要な特徴は「力」に対する態度です。
権威主義的性格の人にとって、すべての人間は2種類に分かれます。
力を持つ者と、力を持たない者です。
人間が持つ力であろうと制度が持つ力であろうと、権威主義的性格の人が、愛し賞賛し服従したくなるのは「力があること」そのものです。
その「力」が守ろうとする価値のためではなく、「力を持っていることそのもの」が自動的に権威主義的な人を夢中にさせます。
権威主義的性格の人の「愛」が「力」によって自動的によびおこされるように、無力な人間や制度は、権威主義的性格の人間の軽蔑を自動的に呼びおこします。
権威主義的人間は、無力な人をみると、その人を攻撃し、支配し、絶滅させたくなります。
違う性格の人からみると、無力なものを攻撃するという考え方はゾッとしますが、権威主義的な人間は、相手が無力になればなるほど、ますますいきり立っていきます。
いっけん権威主義には見えない人
また権威主義的な性格の中には、一見まるで権威主義の正反対に見えるような特徴を持つものが、いくつかあります。
ひとつめは、すべての権威に逆らい「上から」のどのような影響にも反感を持つ傾向です。
日本人の多くが「上から目線」を非常に嫌うのは、このような傾向の一つの表れかもしれません。
この反感を持つ傾向は、時に徹底していて服従的な傾向は隠されてしまうこともあります。
このタイプの人間は、常にどのような権威(その人に利益をもたらし押さえつけるような要素を持たない権威でさえ)にも逆らいます。
また、権威に対する態度が分裂するケースもあります。
ある権威(特にその無力に失望した権威)には逆らいますが、より大きな力を持ちマゾヒズム的な憧れを満たしてくれるように思える別の権威には服従します。
それから、普段は反抗的な傾向がまったく隠れていて、ただ権威の弱さが現れた時にだけ反抗的な傾向が表面に現れるようなタイプもあります。
ひとつめの、常に反抗的な態度をとるタイプの人間の場合、この人たちは非常に強い独立性にもとづいてあらゆる権威に対立するかのように見えます。
彼らは精神的な強さを持ち自分の個性を守るために、自由と独立をさまたげる力と戦う人間のように見えます。
決して服従的なマゾヒズムタイプとは思われません。
でも、このタイプの権威主義的な人間の権威に対する戦いは、本質的には単なる反発にすぎません。
この人は権威に反発することにより、自分を主張し、自分の無力感を克服しようとしています。
でも、そこには意識的であれ無意識的であれ、服従への憧れのなごりがあります。
この種の人達の行動は、本質的には権威を否定するものではなく、まるでカンシャクを起こした幼児が親の言うことなら何でも逆らうようなものです。
権威主義者の哲学
権威主義的性格の人間の、人生に対する態度や哲学は、その人が「感情的」に追い求めるものによって決まります。
権威主義的性格の人は、人間の自由を束縛するものを愛します。
権威主義的性格の人は「運命」に従うことを好みます。
「運命」が何を意味するかはその人の社会的な地位によって変わります。
その人が軍人なら、運命とは彼が進んで服従する上官の命令を意味します。
ビジネスマンであれば経済的法則が彼の運命です。
彼にとっては経済的な危機も繁栄も、人間の行動によって変更できる社会現象ではなく、それは人間が服従しなければならない優越した力に思えるのです。
ピラミッドの頂点にいる人でも、ピラミッドの底辺にいる人でも、根本的には同じことです。
違っているのはただその人が服従しなければならない力の大きさや性質であって、依存感情そのものではありません。
すべての権威主義的な考え方に共通している特質は、「自分の人生は自分の関心や希望を超えた大きな強い力によって決定されている」という確信です。
自分に残されたただ一つの幸福になるための道は、この力に服従することです。
人間の無力感がサドマゾヒズム哲学の主なテーマです。
もしも自分の人生が、自分を超えた強く大きな力によって決定されているとすれば、自分の人生を、自分の希望や関心にかなうように自分自身で変えていくための努力など、無駄に思えるに違いありません。
こうして権威主義的性格の人は、自分自身の成長や幸福のために継続的な努力をすることが難しくなっていき、行動力を失っていきます。
しかしながら、権威主義的性格の人がすべて行動力がないわけではありません。
権威主義的性格の人の中には「自分のために」する行動だとまるで行動力がないのに、「人のために」する行動であれば、すごく行動力がある人もます。
ではなぜ、権威主義的性格が持つ「行動力」は、このような性質をもっているのでしょう?
自分のためには行動できない
実は、権威主義的な性格の人にとっての、「行動力」や「勇気」や「信じること」は、そうでない人間にとっての「行動力」や「勇気」や「信じること」とは、まったく違う種類のものなのです。
権威主義的な人間の行動力とは、強い無力感を基本としています。
強烈な無力感の中でできる行動、それは自分自身よりも「上」にある何か、のためにする行動です。
国のため、社会のため、名誉のため、義務のため、勝利のため、会社のため、学校のため、チームのため、みんなのため、親のため、恋人のため、友達のため、夫のため、妻のため、子供のため、の行動ならできるのに
今はまだ存在していない無力で未確定な何かのための行動や、弱く不完全な等身大の自分自身のためだけの行動は、できません。
権威主義的な性格の人は、常に自分より上にある何かの力に頼って自分の行動力を獲得するのです。
ただ、権威主義的性格の人にとっては力が欠けているという事こそが、常に罪があること、劣っていることの証拠となるので、もしもこの人が信じている権威が弱点を表せば、この人の愛と尊敬は、軽蔑と憎悪に代わり、その行動力は目標を失うために、行動力じたいを失います。
しかしながら、この人は他のより強い力に助けられていると感じない限り、現存の権力を攻撃できるような「攻撃精神」を持ってはいませんので、たとえ「愛と尊敬」が「軽蔑と憎悪」に変わったとしても、他のより強い力に助けられない限り、現存の権力を攻撃するような「行動」に出ることも、ありません。
つまり、この人は、次の新しい権威をみつけるまでは、行動力というものを完全に失った人になるのです。
黙って耐えるのが、最高にカッコイイ
権威主義的性格の人がもっている勇気とは本質的に「苦しむことを避けようとしない」勇気です。
どんなに酷くても、その「運命」を不平を言わず受け入れ「苦しむ勇気」です。
「不平を言わずに苦悩を受け入れ苦しむ」ということが、権威主義的性格の人にとっての最高の美徳なのです。
それは苦悩を終わらせようとしたり減少させようとする勇気ではありません。
苦しい運命と果敢に戦い、それを変えようとする勇気ではなく、苦しい運命に何一つ不平を言わず黙ってそれに服従することこそが、権威主義的性格の人にとっての「英雄的な勇気」なのです。
なにもかも信じられない
権威主義的性格の人は、「権威が強く命令的」であるかぎりその権威を「信じて」います。
権威主義的性格の人の「信じる」ということは、実は何もかもが信じられないという強烈な「疑い」の裏返しであり、その疑いをなんとか補おうとしているだけなのです。
けれども、もしも「信じるということ」が、「今は潜在的にしか存在していない何かがきっと実現するだろうと心底から思うこと」を意味するのであれば、権威主義的性格の人間は「信じること」ができません。
権威主義的な性格の人にとっては、何もかもが「疑わしい」ものなのです。
「疑うという態度」じたいは決して権威主義的な性格の人だけがもつ態度ではありません。
しかしながら権威主義的性格の人がもつ「疑うという態度」は、それ以外の性格の人がもつ「疑うという態度」とはまったく別の種類のものです。
不正確な、あるいは明らかに間違っている何かに対する知的な反応としておこる「疑うという態度」は合理的なものです。
しかしながら権威主義的性格の人がもっている「疑うという態度」はこのような合理的な態度ではありません。
彼らにとっては、人生おいて確信をもてるような経験は何一つありません。
あらゆるものが疑わしく、何一つ確実なものはないのです。
このような不合理な疑いの、もっとも極端な形は強迫神経症としての疑いです。
この症候群に悩まされている人たちは、強迫的にかりたてられ、何もかもを疑い、自分がやろうとする全てにおいて迷ってばかりいます。
この種の疑いは人生における重大な問題にも関係しますが、どの服を着ようか?とか、何を食べようか?といった些細な決断さえも妨げます。
疑う対象が些細なものか重大なものかに関係なく、この不合理な疑いは人を消耗させ激しく苦しめます。
強迫神経症としての疑いを精神分析的な方法で細かく観察してみると、それは、性格に統一性がないことからおこる激しい無力感や無能感といった無意識の「感情的な葛藤」の合理化された表現であることがわかります。
「何一つ確信をもてない、何一つハッキリとは決められない」こういった統一性のない性格が、内面的な無力感や無能感を作り出し、それが意志力を麻痺させます。
こうして「努力できない病」ができあがるのです。
この内面的な無力感は、「疑い」の根本を認めること、つまり自分のなかにある「矛盾」を正当化するのではなく、自分の中にある様々な「矛盾」を少しでも減らそうと努力しなければならないことを、認めることです。
そのためには権威主義的な価値観を改め、自分の中の創造性(創りだす力)を少しでも増やしていく必要があります。
それができない場合は、この不合理な疑いを何か別のモノに置き換えるしかありません。
洗浄強迫(一時間ごとに手を洗わずにはいられないような強迫観念)のように、何かを強迫的にやり続けるような行為は、このような置き換えの一つです。
また何らかの宗教や政治団体を狂信的に信じたりするのも、やはり置き換えの一つです。
このような置き換えによって、苦しみの種となっているハッキリとした「疑い」を追い払うことはでき、それにより、取りあえず何とか生活するコトはできるようにはなりますが、根本の問題は解決されていません。
権威主義的な哲学は本質的に虚無的です。
それはすべてに絶望し、何もかも信じることができないという考え方を基本としていて、ニヒリズム(冷笑主義)と生命の否定へとつながっていきます。
しかしながら現代における不合理な疑いは、以上のようなハッキリとした「疑い」としてではなく、多くの場合は「無関心」という態度として現れがちです。
この種の「無関心」を持つ人々の間では、やろうとさえ思えば何でもできる、と考えられているのと同時に、確信できるものは何一つない、とも考えられています。
仕事、政治、道徳、あらゆることに対して混乱した感情を持つ人が、ますます増えています。
そして悪いことに、この人たちはこの混乱した精神状態を、正常な精神状態だと信じています。
この人たちは孤独を感じ、無能感に苦しみ、うろたえ、まごついています。
だからこそこの人たちは、自分の人生を自分自身の頭で考え、自分自身で切り開いていこうとはしません。
この人たちは、自分自身の実際の感情や知覚で、自分の実際の生活や人生を感じたり考えたりはしません。
その代わりに「普通はこんな風に考えるはず、普通はこんな風に感じるはず」とされているやり方で自分の人生や生活を、考え感じるのです。
こういったロボットのようになってしまった人たちは、ハッキリとした「疑い」は持っていませんが、無関心と相対主義がそれに変わっています。
なお、この種のロボット的な人間が、どのようにして作られるかについては「普通の人になるためには「自分」をやめる必要があります。」をお読みください。
平等なんてありえない
権威主義的な性格の人も、ときに平等という言葉を習慣的に、あるいは自分の目的に便利だから、という理由から使うこともあります。
しかし、それは権威主義的な性格の人にとっては全く現実的な意味も重みも持ちません。
それは権威主義的な性格の人が、感情的に経験できないものだからです。
彼らにとって、世界は力を持つ者と持たない者、優れた者と劣った者、からできています。
サドマゾヒスティックな競争によって、この人はただ支配と服従だけを経験しますが、決して連帯は経験しません。
この種の人にとって、性的な違いであれ人種的な違いであれ、結局、優越と劣等の印でしかありませんので、優劣を意味しない違い、というものを理解することができません。
権威主義的哲学においては平等という考え方は存在しないのです。
権威主義的な考え方の基本は、「権威を持つ者と、それに従う者たちとの間には本質的に決して超えられない差異がある」という点にあります。
「権威を持つ者とは、それに従う者達が絶対に持つことができない強大な権力を持ち、服従する者たちとは比較にならないほどの、尋常ではない力と知恵を持っている者である」と考えられていますので、平等という考え方が入る余地はないのです。
努力できない病を治すたった一つの方法
もしも、あなたが、会社のためや、学校のため、チームのため等だけではなく
弱くて発展途上中の不完全な等身大の自分自身のために毎日のコツコツとした努力ができるようになりたいのならば
自分自身の人間的な成長や幸福のために毎日のコツコツとした継続的な努力ができるようになりたいのならば
それが性格の問題であろうと、セックスの趣味であろうと、自分の中のサディスティックな要素やマゾヒスティックな要素を少しづつでも減らしていき、権威主義的な要素を少しづつでも減らしていく必要があります。
サディスティックであることマゾヒスティックであること権威主義的であることを正当化したり美化したりするのではなく、それを克服するべき自分の問題点である、とみなす必要があります。
それは、当ブログのメインテーマの一つである「努力できない病を治す方法」の中の一つのアプローチでもあります。
じゃあ具体的にどうすれば良いか?
それについては、「がんばれない、努力できない、を治すたった一つの方法」に書いてありますので興味のあるかたはぜひ読んでみてください。
また私たちが住む現代日本社会においては「親孝行」という美名で「権威主義」が正当化されるケースも非常に多いため、それにも十分に注意を払う必要があります。その点については「親孝行が「努力できない病」を作ることもあります」をお読みください。
なお冒頭にも記載した通り、この「SMが「努力できない病」を悪化させるのはナゼか?論理的に説明してみた。」の中のサドマゾヒズムについての説明や権威主義についての説明などはすべてエーリッヒフロムの「自由からの逃走」および「人間における自由」の論旨に従って書いています。
もしも、この文章を読んで興味を持たれた方は、ぜひフロムの著作を読んでみてください。
コメント
非常に分かり易い解説、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
「非常に分かり易い」とおっしゃって頂けて嬉しいです。
SMをやったことがないんじゃないかなぁ、と思いました。
SもMも、お互いが普通の人間だと理解していますよ。あくまでプレイですから。
努力家の人間も多いと思います。真面目で努力家な人間だからこそ、少しアブノーマルなくらいでないと自分を開放できないのです。
Sは自分をより魅力的に見せなければいけないし、Mが心地いいと感じる程度をノンバーバルコミュニケーションで汲み取らなければいけません。これはそれなりに賢くなければできません。
それなりにSMをやっている方ならわかると思いますが、SMにおける支配者は本当はMなんですよ。
Sの努力はMへの愛情がなければなかなかできるものではありません。
Mの前ではカッコつけていても、見えないところで縄を練習したり、怪我をさせない縛り方など一生懸命研究していたりするんです。ムチだって振ればいいというものではありません。
Mもまた、自分の身体をつかってSへの愛情を表現しているんです。言葉は嘘をつけても、体で感じる痛みに嘘はつけません。
SMはこうだ、と語るなら、ご自身の経験をもとに話していただきたいです。あなたの言葉はSMをイメージや言葉面だけでとらえているような薄っぺらさを感じます。
たぶん私の書いた記事をあまりよく読んでくださっていないんじゃないかなぁと思いました。
なので、ちょっとこの記事の中の文章を引用しながらお返事を書いてみたいと思います。「」の中の文章が記事の中の引用文になります。
>SもMも、お互いが普通の人間だと理解していますよ。あくまでプレイですから。
もちろんその通りです。この記事の中にも書いているように現代日本社会においてはSM的な性格の人こそ一番普通の人間です。なぜなら、「実は、いわゆる権威主義的な社会においては(現代日本社会もそのひとつです)サド・マゾヒスティックな行動は、美化されたり正当化されたりすることが多く、たいていの人は多かれ少なかれ自分の中にサド・マゾヒスティックな要素をもってい」るのですから。
>努力家の人間も多いと思います。真面目で努力家な人間だからこそ、少しアブノーマルなくらいでないと自分を開放できないのです。
これももちろんその通りなんです。この記事にもかいているように、いわゆるSM的な性格の人は「国のため、社会のため、名誉のため、義務のため、勝利のため、会社のため、学校のため、チームのため、みんなのため、親のため、恋人のため、友達のため、夫のため、妻のため、子供のため、」に努力することは、大得意なんです。それが権威主義的性格というものですから。
そしてこのような目標のために努力する人を一般社会的には真面目な努力家、といいますからSM的性格の人が一般社会的には真面目な努力家であることは間違いないのです。
ただ問題は、そのような大義名分のためではない努力、「弱く不完全な等身大の自分自身のためだけ」の努力ができない点にあるんです。
だからこそ、やせたいけどやせられないとか、運動したいけど運動できないとか、勉強したいけど勉強できないとか、禁煙したいけど禁煙できない、ということになってしまうんですね。
>Sは自分をより魅力的に見せなければいけないし、Mが心地いいと感じる程度をノンバーバルコミュニケーションで汲み取らなければいけません。これはそれなりに賢くなければできません。
これももちろんその通りなんですね。この記事にも書いているように、「サディストは本当の実力よりもさらに自分を完璧に強く欠点のないものにみせようとし、それによって誰かを支配する資格を得ようと」するのですから。
>それなりにSMをやっている方ならわかると思いますが、SMにおける支配者は本当はMなんですよ。
Sの努力はMへの愛情がなければなかなかできるものではありません。
Mの前ではカッコつけていても、見えないところで縄を練習したり、怪我をさせない縛り方など一生懸命研究していたりするんです。ムチだって振ればいいというものではありません。
Mもまた、自分の身体をつかってSへの愛情を表現しているんです。言葉は嘘をつけても、体で感じる痛みに嘘はつけません。
これももちろんそのとおりなんですね。SM的な関係の中ではその関係は「愛」の関係だと思われている場合がほとんどです。そしてこれはこの記事ではなく、この記事を書く元となった記事といいますか、当ブログでは一番人気の記事「がんばれない、努力できない、を本当に治すたった一つの方法」の中の「依存と愛とは違います」という章の中に書いているのですが、
「マゾヒスティックな依存行動はしばしば愛情と誤解されます。相手だけを大切にして自分のためには何も望まない態度や、相手のために完全に自分を犠牲にする態度、相手のために自分の権利や主張をすべてゆずってしまうような態度は、一般的には「偉大な愛」として賞賛されがちです。
でも実際にはそれらの態度は、本来の意味での「愛」ではなく、マゾヒズム的な情熱であり、その人の中にある「誰かに完全に服従し依存したい」という欲求の現れです。
もしも「愛」とは、ある人の本質を心底から強く素晴らしい、と思うことであり、その人に対して積極的に関わろうとする態度のことをいうのであれば、もしも「愛しあう関係」とは愛する者同士がどちらも、自分の個性を失わずに自分を偽らずに、愛する相手と強く結びつくことができる関係をさすのであれば、マゾヒズムと愛は対立するものです。
愛は平等と自由にもとづくものです。
もしもその関係が、どちらか一方の服従と自分の個性の放棄にもとづくのであれば、いかに美しい言葉で飾ろうともその関係は「愛」の関係ではなくマゾヒズム的な依存です。
またサディズム的な「支配」も、よく「愛」と混同されます。
もしもその人の「ためを思って」支配するのであれば、その人を支配することもまた一つの「愛のカタチ」であると。」
以上の「」の中の文章は、「がんばれない、努力できない、を本当に治すたった一つの方法」という当ブログの記事からの引用になります。
ぜひ、この「がんばれない、努力できない、を本当に治すたった一つの方法」という記事を読んでみてください。そうすれば、このSMについての記事の本質がよりよく御理解頂けると思います。
あと、当ブログの中にある「普通の人になるには「自分」をやめる必要があります」という記事と「努力せずにはいられない病、は努力できない病と同じです」という記事もまた、このSMについての記事の理解に役立つと思います。良かったら読んでみてください。
フロム氏がSMを前提に話をしていないのに、無理矢理に彼の解釈をSMの説明に当てはめたのでとても非現実的な説明に陥っています。
フロムはSMを前提に話をしていますよ。一番解りやすい例で申し上げますと、「自由からの逃走」の第5章「逃避のメカニズム」の中の、1、権威主義、という部分を読んでみてください。ダイレクトにサディズム、マゾヒズムという言葉を使って、人間が「自分自身」から逃避するために、サディズムまたはマゾヒズム的なモノにのめりこんでいくシステムを丁寧に解説しています。